ダイオプテーズの森








 その町はロイエンタールな町という名前でございました。
 その由来は誰も知り得ません。人名から由来したものなのでしょうか。この奇妙な町名に何故か心を掻きむしられるような思いがしました。胸騒ぎとでも申しましょうか、得体の知れない引力を感じたのです。
 地図を調べても、どこにもその名は見つかりませんでした。あらゆる種類の蔵書を紐解きました。すると、両手で抱えるのも一苦労するほどの分厚く大きな鉱物図鑑のなかで、ようやくその名を発見したのです。

 我が家の蔵書はほとんどが母のものでしたから、母の寝室兼図書室に私は入り浸っていました。その日、母の寝台の上には見慣れない浅葱色の着物が取り出され、拡げられていました。そこに眠るべき人間の肉体の代わりに空間を占領したその穏やかな色の囁きは、なぜだか生物の細胞組織などよりもずっと確固とした威厳に満ち、ただならぬ存在感を辺りに放出していました。
 浅葱色の着物の下には、淡い珊瑚色をした無地の反物が転がっており、恥ずかしがってその色に頬を染めたかのように、ひっそりと顔を覗かせていました。そのふたつの色は、それ以外の色とは並び合うことすら断固として拒否するかのように固く寄り添い、今にもとろけ出しそうに愛し合っていました。
 秘やかな情事を悪戯に覗き込んだような、危険な好奇心と羞じらいに縁取られた罪悪感が私を満たし、快楽の淵を垣間見たままで、私は図鑑を抱き締めたままその色彩の池へと身を投げ出しました。

 さて、ロイエンタールな町という文字列を発見したのは「ダイオプテーズな道」という項目の中、たった一カ所のみでした。ダイオプテーズという濃緑色の鉱石の解説の中ごく一部に、付加されたエピソードとして大した重きも置かれずにその道についての記述はありました。私はうつ伏せに寝そべって、両手で顎を支えながら図鑑を覗き込みました。
 紀行文やら旅行案内やらを書き慣れた職業文筆家のやっつけ仕事のような、判で押された退屈な、まるで表情のない文章が連なっており、もう既に予兆から本症状まで慣れきって飽き飽きしている特有の吐き気を催しながら、私はそれに目を通したのでした。

 ダイオプテーズな道と名付けられた、いわば巡礼のための道が存在するという言い伝えがあり、その最果てに辿り着いた者は神を見る、解脱する、永久の命を授かるなどという諸々の迷信めいた噂があったのだそうです。
 それはいかにも眉唾物の尾ひれの付いた怪談話のような趣で述べられていて、ただ単にダイオプテーズという名を持つためだけに、何の価値も理由も検証されず全く考え無しにそこに機械的に付け加えられたものでございました。そして長い巡礼の果てに辿り着く最後の町が「ロイエンタールな町」という名で呼ばれていたらしいのです。

 浅葱色の正絹の上に脚を滑らせながら、早鐘のように鳴り出した鼓動を私は抑えようとはしませんでした。
 本を閉じ、その表紙に頬を押しつけると、冷たさが紅潮を中和していくのを感じました。その強引にしてニュートラルな力は隙を突き、私を深く暗い意識の深海へと誘っていきました。深度10、20、30、50、100…。目盛がどんどん下がっていくのが脳裏に映し出されました。


◆ ◆ ◆ 


 眩しさに眩暈するほどの黄金のなかで、私は目蓋を開きました。目を擦ると、ようやく光に慣れてきた網膜に映し出されたのは、一面に拡がる小麦畑でございました。
 ここはロイエンタールな町だ、電流のように直感が体内を走りました。

 自分の背丈ほどもある小麦を掻き分け歩くと、ザクザクとたいへんに乾いた音が立ちました。全く湿度というものが存在しないかと思うほど乾燥しきっているように感じられました。なぜこんな中で植物が生育できるのだろうと、この場においてはいささか悠長で逸脱したような考えが浮かびました。
 この植物は小麦のようだけれど全く別の植物なのかもしれない、水や土中の養分とは違った、何か別のエネルギーをもとに成長するものなのかもしれない、私は漠然と考えました。

 数分歩くと、畑と畑の間のあぜ道のようなところに出ました。しかしそこで初めて、今まで小麦を掻き分け歩いていたにもかかわらず何の抵抗も感じず、舗装された道路を歩くような感覚でいたことに気づきました。私は首をかしげながらも歩行を続けるより仕方ありませんでした。
 しばらく行くと、遠方に人の姿が見えてまいりました。声はありません。無駄な抵抗かもしれないと薄々気づきながらも、私は身を隠し息を潜め、少しずつ近づいてみました。
 数人が麦を刈り取っています。全員が同じ呼吸、同じ動きで無心にただ麦を刈っていきます。振り子の動きやろうそくの炎につい放心して見入ってしまうのと同じように、私はその動きに知らず知らず見入ってしまいました。
 数人の男性はこうして畑仕事をしているにもかかわらず、皆とても色白で、しみひとつない美しい肌をしていました。帽子も何も被っておらず、風に揺れる金髪が辺りの色彩に同化して輝きを添えていました。
 彼らは無言のまま刈り続け、刈られた部分が美しく正しい輪郭の長方形を描いていきます。彼らは私に気づきません。あまりにも熱中しているのか、あるいは瞳の光が完全に内側へ向かっているのか、外界に全く関心がない様子に見受けられました。
 蝋人形のようでもあるけれど、それにしてはきらめくばかりの生気がみなぎっており、両極を共に内包するその在り様はかつて見た記憶のないものでございました。
 彼らの表情に今更私は注目しました。なんと柔和で穏やかな顔をしているのでしょう。それはいささか不気味に感じられるほどでした。どこまでも牧歌的な香りに満たされ、光溢れ、私は気が遠くなるのを感じました。
 
 少々ふらつく足元で歩き続けるうち、小さな町並みに出くわしました。唐突に畑は終わっていました。しかしその牧歌的な香りは途切れることなく続いています。
 生活感といったものが全て蒸発してなくなってしまったかのような白い空気だけが流れており、行き交う人々も畑の男たちと酷似した親和的な表情を常に保っています。風を孕んではらりと舞うように進んでいくのです。その様は誰しもが喩えようもなく美しく、内部から光を発しているかのようでした。すれ違うとどの人も香しく、軽く花弁が散るような残り香がふっと漂いました。
 私は咄嗟に、今自分の姿を鏡で見たら、どれほど醜く餓鬼のような表情に見えることだろうと想像し、身震いがいたしました。
 逃げるように私はそこを後にしました。とは言ってもどこへ向かっているのか自分でも皆目見当もつかず、ただ歩みを止めれば発狂してしまうような気がするために、強迫的に進んでいくしかなかったのでした。


◆ ◆ ◆ 


 やがて町のはずれにやってきました。そう感じたのは、今までのからからに乾いた地面が一転してじめじめとした湿地帯のようになってきたからでした。
 ロイエンタールな町はダイオプテーズな道の最終地点のはずでした。その町のさらに最果てに辿り着こうとしているということはつまり、ここは世界の果てなのでしょうか。それでも何でも、そんなことはどうでもいい、私は思いました。とにかくこの奇妙に美しい世界から逃れたい一心で。
 
 この美し過ぎる世界は現実なのか虚構なのか、知る由もありませんでしたけれど、私はこの偏った不気味な美に対する激しい嘔吐感を静めることが出来ません。
 しかし、さらけ出された美の天衣無縫さに際し、不格好な薄汚いまでの自己演技の様を直視しなければならなくなったことは事実です。私はそれを拒んでいることに気づいていたために自分を激しく叱咤せざるを得ない羽目に陥ったのです。べたべたと脚にまとわりつく汚らしい泥は自分に近しいものに感じられて、私は泥をたいへん愛しく思いました。全身をこの泥にまみれさせて安堵したいと願いました。

 その道は、深い森へと続いていたのでした。遠くに煙る深い緑色が見えてまいりました。空のしらけた淡い青など消し飛んでしまうほどの、鮮明でありながらどこまでも透明感を湛えた青緑色です。
 それはまさに「ダイオプテーズ」の森でした。それは木々ではなく鉱石からなる森だったのです。浅葱色の正絹の上で見たあの図鑑に載っていた、鉱石の写真群を私は思い出していました。
 なぜだか、その青みがかった濃緑はとても胸に滲みるのでした。由縁のないはずのものに懐かしさがこみ上げ、気づかぬうちに胸に熱いものが溢れていました。その緑に全ての罪を流し込み、消し去らずとも赦してもらえるような気がいたしました。

 泥は深さを増してきて、やがてそれが大きな河に繋がっていることが判ってきました。その河の対岸に森はひらけているようです。しかし河に近づくにつれ、それがとても広大な流れも速い大河であるように見えてまいりました。 遠くから、犬の鳴き声が折り重なるように聞こえました。そういえば、音という音を聞いたのは久しぶりだと、我に返って私は思いました。
 犬なんて、どこにいるのだろう? しかも、その吠え方はとても鬼気迫る何かを感じさせる類のものなのです。

 泥の道が河とぶつかる地点がいよいよ見えてきました。それを見て一息つき、額の汗を拭った私は、道の両端、路傍に幾つもの犬の死骸があることに気づいて、驚愕に息が止まる思いをいたしました。
 どうして今まで気づかなかったのでしょう? 犬たちの遠吠えはいよいよ激しく響き、私は途方に暮れました。この犬たちは河を渡ろうとして失敗し、力尽きた犬たちに違いありません。私はその場にしゃがみ込み、望み通りに全身泥まみれになりました。突如として今まで麻痺していたせいか感じられなかった肉体的疲労が一気に全身に噴出しました。死骸の異臭が格好の獲物に喰らいつくかのように私の鼻腔に襲いかかりましたが、それを感じる余裕も、気味悪さを味わう余裕も既に失い果てていたのは幸いと言えるでしょうか。

 あの緑の森はもう視界に捉えられているのに、為す術はありません。こんな大河を身ひとつで渡れるはずがありません。
 天国の一歩手前に見せかけて、狙い澄ましてぱっくりと口を開いた地獄の入口はあったのかと、今更ながら私は知らしめられたのでした。言い伝えなんて非道くいい加減なものだと恨みがましく思う気持ちさえも燃焼しきれないくらいに、私は消耗しておりました。
 滑稽な地獄絵巻の一部分となって、私もここで死骸となるのでしょうか。こんなのはどうせ夢に違いない、いつか終わる悪夢なら今すぐに、無限の残酷な時を刻みつけられる前に終わって欲しいと願いました。


◆ ◆ ◆ 


 一匹の子犬が、その時私の背後から突如として現れました。境遇を憂えることに忙しかった私は、犬がいつどこからやってきたのか全く気づいていませんでした。
 子犬はつぶらな瞳で私を見据えて立ち止まりました。柴犬のような薄茶色の短い毛をした、変哲のない子犬でしたが、漆黒の瞳の中には黒という色を超えた深淵が宿っているようで、吸い込まれるように私は犬を見つめたまま瞬きも忘れて立ちすくみました。
 彼は私に何かを訴えるような眼差しを残し、大河へ向かって駆け出しました。私は思わず引き留めたくなる衝動に駆られ、言葉にならない呻きを発しました。子犬は振り返り、私に一瞥をくれるとそのまま走り去っていきました。
 あの小さな犬が大河を泳いで渡りきるなど、とても正気の沙汰とは思えません。なんとしても引き留めたかったと、哀れで仕方がありませんでした。
 河の向こうの青みがかった緑の洪水は、霧に霞んだように滲んでこの瞳に映し出され、それが自分の涙によるものなのか、もう視神経が狂いはじめているのか察しかねました。にわかにその緑が激しく、かつて感じたことのない程の愛しさで感じられ、声にならない慟哭は胸のなかで乱暴な角度の反射を繰り返し、惨く痛みました。
 
 なぜここに来てからようやく気づくのでしょう。なぜ手に入らないと分かった瞬間に遅まきながら気づいたりするのでしょう。私はそれをずっとずっと、激しく求めていたということに。
 その森の在処を知らずにいたならば、のうのうと眠り続けていられたというのに。意識よ昔日の安寧に身を翻せと、虚しく脳の中の信号は騒ぎ、躰が内部から分裂していくような感覚に見舞われました。心だけが分離して肉体を残して旅立ちたがっているようでした。
 しかし、その熱を孕んだ誘惑を、先程の子犬の瞳の残像だけが鮮やかに打ち消していくのでした。その漆黒の魔術に魂の中の私は惹きつけられているくせに、心はまだ頑なに抗い続けました。それでも、ありとあらゆる悲劇の起こりうる可能性を事細かに設営するが如く思い巡らす間、既に私の二本の脚は滑るように動き出しておりました。操り人形にでもなり、何かに遠隔操作されているように身体が勝手に動いていく感覚でございました。
 迷い続ける、知恵の輪にはまってしまったような思考の渦を、元居た場所に残して来てしまったようです。歩みを進めれば進めるほど、騒ぐ心が凪いでいくのが感じられました。
 私はもはや何も考えなくなりました。何も考えていないということさえ、考えなくなりました。
 
 河の水は冷え切っていましたが、火照った私の脚には、焼けた土に打ち水をしたような静けさがよぎり、たいへん心地の良いものでした。
 河の中へと進み行くにもかかわらず、いくら経っても腰の辺りまでしか水面が上がってまいりません。確かに水底に足裏をつけて歩いているとは感じていたのですが、それも錯覚のような気がしてまいりました。しかしそんなことはどうでも良かったので、私は考えることをすぐに止めました。
 掻き分ける脚の両脇に流れる水が私を愛撫していき、跳ねる飛沫は小さな小さなくちづけを惜しげもなく繰り返してくれました。私はただそれを快く受け取りました。


◆ ◆ ◆ 

 
 やがて、河の途中、何か光るものを視界に捉えました。これまた黄金の色をした、眩しさを放っている生命体のようです。
 徐々に近づいてくるに従い、その輪郭が顕わになってまいりました。それはまるで、スフィンクスに命が宿り、ここに時空間を超えてテレポートしてきたかのような、獅子の姿でした。佇む様子に、付着した異次元の名残が静かに漂っていました。
 
 獅子に十数メートルの距離に近づくまで、彼は私の動向に気を払う様子が見られませんでした。深い瞑想状態にでも入り込んでいる様子でした。ですから、私は近づいていくことができたのでしょう。慣れ親しんだ、しかしこのロイエンタールな町では非常に似つかわしくない躍動する恐怖感が、体の中で激しく暴れ出し、心拍数が限りなく上昇していくのを覚えました。
 その恐怖が限界に達し、私が震える歩みを止めたまさにその寸分違わぬ瞬間に、獅子はその瞳をかっと見開きました。そして私をそこに捉えると、動きのまるでなく固まった表情に非常にやさしい光が棚引いたのを、私は見逃しませんでした。
 
 よくぞここまでいらしてくれました
 
 獅子の声であると思われました。彼の顔は微動だにせず、いかついその形相からは想像できない柔らかく響く低音が、どこか他の世界から電磁波となって届いているかのように思われました。それを受け取るためのテレパシックな受容体が私のなかにあるということに、私は少なからず驚きを覚えました。しかしその声を確かに受信し、翻訳して理解することは可能だったのです。
 
 そんなに怖がらなくてもよろしいのです
 私はこの森の門番です
 門番といっても来るものをふるいにかけて取捨選択する役目ではありません
 私は誰のことも裁いたりしません
 
 心のなかを見透かされていました。私はここで試されて、気に入られるか、何らかの条件を満たせなければ森へと立ち入る許可を得られず、この獅子に食われでもするのだろうと、また想像をたくましくしていたのでした。
 
 ですから 門番という言葉はふさわしくないのですね
 ここに辿り着いた方々を祝福し 喝采を与えるのが私の役目なのです
 
 体中の緊張がほどけていくのを感じていました。極度の緊張の反動か、ばらばらと崩れ落ちて粉々になってしまうような気がいたしました。
 
 あなたは ロイエンタールな町に辿り着き 祝福を感じましたか
 
 獅子は問いました。町でのことを思い起こし、再びまざまざと苦々しい気分が蘇ってまいりました。
 
 あなたは 町の清らかさ 人々の美しさに耐えきれず 自らを 阻害された異邦人と感じ 傷ついたのですね

 私は傷ついてなんかいない、ただ吐き気が止まないほど嫌いだっただけ、そう反駁しようとする私を諫めるように、獅子は言葉を矢継ぎ早に放ってよこしました。

 それならば 祝福すべきことです
 なぜならば ロイエンタールな町とは あなた自身 だからです

 
 私は意味が飲み込めませんでした。ずいぶんと祝福という言葉が好きなんだなと思いました。そして、私自身はその言葉と常にほど遠く、かけ離れたもののように感じてきたことに思いを馳せました。
 獅子は続けました。
 
 ロイエンタールな町は あなたの奥深くに眠る あなたの意識していない あなたの真実を 映し出す鏡なのです
 あなた方は誰もが 自分でそうと感じた自分の姿を 世界の中で体験します
 思い描く世界像 人間像が その事を知ろうと知るまいと 自動的に反映するのです
 ロイエンタールな町では 違います
 意識の歪みは ここでは遮断されます
 あなたの思い描く構図は 少なくとも ひとつやふたつの誤った思い込みから 歪みを生じているのです
 それが ここでは 反映されません
 あなたが認識せず 押し殺しているあなた自身も この世界では 押し殺すことができず 反映されてしまうということです

 
 獅子の視線がおだやかに天を仰ぎました。すると、どの色を放つか迷いあぐねて、仕方なく淡い灰色にとどまっているような空が、突然泣き出したように雨粒を送ってよこしました。
 しかしそれは、雨粒ではなかったのです。微かに薔薇色に染まった、微細な泡でした。 泡の粒たちは降り注いでは私のまわりを取り囲み旋回し、次第に私を包むヴェールのようなものが出来上がっていきました。
 
 あなたは あなた自身の美を あの町に見たのです
 そのことを 単に 認めなくてはなりません 愛らしい少女よ
 あらかじめ 自分のなかにないものは なにひとつ 体験することはできないのです
 そして この薔薇色が あなたへの贈り物です 大切にしてください
 あなたが この森で 美しく咲く花であるよう 祈ります

 
 河の水流が激しくなり、足を取られた私が体勢を立て直そうとふらついている間に、気がつけばいつの間にかずいぶんと流されており、獅子の居る場所からだいぶ遠のいてしまいました。
 しかし今となっては、それも彼のはからいのように感じられるのでした。私は、森を目指してもう半分ほど、河を渡りきれることを確信しました。
 泡のヴェールは、私の視界を覆い尽くし、それを透かして見る風景は、全てが淡い桜色に染まっていました。世界中がこぞって明度を一段上げたように、全てがくっきりと鮮やかに見て取れました。

 辺りの風景の変化を確かめるように見回していると、前方から、純白の車体を持つ立派な車が、音もなく飛沫も上げることなく、河の上を滑るように走ってまいりました。
 初老の紳士が運転席にひとり、他に同乗者はないようです。車は私の横をすれ違いざまに滑り抜けて行き、獅子の居る場所で静かに止まりました。それは摩擦を利用したブレーキシステムによる制御ではなく、全く抵抗のない空間を念力で行き来するような、未確認飛行物体を彷彿とするような、不思議な動きでございました。
 まるで料金所で止められたみたいだわ、そう思って、私はくすりと笑いました。本当は、支払うための場所などではないことを、もう知っていたからです。
 歩みを進めるうち、もう一度心惹かれて振り返ってみました。すると、紳士がヴェールではなく、なんと子犬を貰っているのを目撃いたしました。それがあの漆黒の瞳の子犬であることが、私にははっきりと分かりました。
 紳士はさも愛しそうに子犬を抱き上げ、まさに「祝福」に満ちた笑みを、満面にたたえていました。あの子犬も、辿り着くべき場所、辿り着くべき人のところに行き着いたのだと知って、自然と涙が溢れてまいりました。
 そして、子犬は私のように逡巡することなく、大河に邁進していったことを思い起こしました。あの子は私などよりずっと賢かったのです。はじめから全てを知っていたのでしょうから。
 この頬を今伝い落ちる涙も、祝福に満ちたものだということに、もう私は確信を揺るがすことはありませんでした。


◆ ◆ ◆ 

 
 ダイオプテーズの森が私を待ってくれている、私は道を急ぎつつ、その過程が清々しく浄められていくのを感じました。意識に描かれた道程の図がクリアになっていくのを感じました。
 いつか帰る場所だったに違いないその森に、流されて、流されて、私はようやく辿り着こうとしているのでした。
 
 薔薇色のヴェールは、私と外界との境界に衝撃を吸収するべく存在してくれ、私は肉体においても、思考においても、それを超えた直感的な領域でも、全てが潤滑に転がり、果てしなく柔らかく抱き留められていることを、一瞬ごとに認識することができました。風に舞うひとひらの羽根になったように軽やかに感じました。それは素晴らしい心地よさでございました。

 私の纏った色彩は、その内部に自分が格納されているために、一体どこまで外界に向け拡がっているのか捉えられません。けれども、その何度でも湧き出す雪解け水のような、何とも形容しがたい心地よさが私を流れていくたびに、世界へ向けて大きく拡がっているような気がいたしました。
 この河を包み、既に見たあの黄金の町を抱き、きらめきを発光するあの人々の息遣いを包含し、この薔薇色の泡粒たちは、分裂を繰り返し生育していく細胞の図を想起させる在り方で、どこまでも増殖していくのです。
 既にロイエンタールな町は私のなかにありました。町は私の大切な一部でした。獅子の語った言葉が実感を持ってもう一度捉え直されました。
 
 あらかじめ 自分のなかにないものは なにひとつ 体験することはできないのです
 
 伸びゆく薔薇色のヴェールはやがてダイオプテーズの森へと到達し、その深く鮮やかな緑との邂逅を果たしたようでした。そのとき、胸の中には激しい歓喜が躍り、溢れ充ちた潤いがほとばしりました。
 そして私は既に知っていました。永い永い時を越え愛し結ばれたふたつの色彩は、既視感の遠い眩暈のなかで、熱い抱擁を交わすということを。






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