勾 玉   stamp



その樹木が燃え上がるのを僕は見ていた。
緑色をうち消すが故の、名付けがたいほどの赤が、重力に逆らう重力で天空へ向けて羽ばたいた。大きな翼を捩ってはためく炎の色に吸い込まれ、そこに手を触れるとそれは冷たすぎて火傷をするような感触だった。
僕は輪郭を失い、斜めに円を描いて緩やかに逆立ちはじめた。まず髪の毛の一本が、そして束になって捩られた肉体が。
中空で炎に溶け込んだ僕はどろどろした液体のように形を失い、重力に逆らうというより重力に従う方法をはじめから知らなかったように思えた。何もかもはじめから知らなかったように。

僕の形無き形は揺らいで、あらゆるものを映していた。群青色の勾玉は細かく金粉を吹いたようにちらちらと光を放って輝いている。電磁気的で、ピリピリと痺れるような液体窒素状の物質で満ちている。内部は垣間見えるようでありながら姿をくらますのが上手だ。あなたを拒絶しますとその存在が言う。
葉脈の名残が其処此処で囁き合った。もしくは悲鳴を上げた。その電光石火の宴に続編はない。



電力会社から、紙切れが届く。
古びて赤茶けた大変かび臭い切手が、今にも剥がれそうに意識を宙に泳がせていた。そこには、象形文字のような、楔のような文字が、目も眩むほどの細かさで一面に印字されている。僕にはそれが幾重にも霞んで見えて、読みとることが出来ない。なのに、そこに何らかの終わりが記されていることが判った。

何の終わりがやってきたというのだろう? プレリュードはなかった。続編もなければエピローグもない。あらゆる旧知の名称を探してあてがってみたが、だめだった。
握りしめているうちに、紙切れは耐えきれず発火した。そして瞬時に灰となった。灰は微量過ぎて計測できる機械がなかったので、僕はそれを無視した。世界もきっと無視するだろう、そう思った。気がつけば無と無が手を取り合って踊り呆けていたから。

そんな電力会社などなかったに違いない。誰かの悪戯だと僕は思った。デマに耳を貸すと、この遊戯は強制的に終了させられる気がしたので、もう手紙は受け取る必要がないと覚った。



僅かに身を捩ると、もう回転は止まらない。
美味しそうな卵色をしたぼやけた月が足の下に見えた。
僕は何かを食べなければいけない。もう長い間僕は食べることを忘れていたじゃないか。いつから何かを食べることを忘れていたのだろう? そう思い起こして、初期化された細胞に気づいた。僕は何の情報も孕んでいない。何を喪失したかさえ、判然としない。ただ、食べることを忘れていたということだけが何故か心に浮かんで来たのだった。理由を追及するという機能も稼働しなかった。
食べなければいけないという強迫された観念のみがみるみるうちに肥大してきた。それは僕という形無き形を呑み込んで、大きく育った。それはさらにもっともっと拡がって行きたがっているように見えた。

僕は、観念という空間の内部に取り込まれた。
針のような琴線が今にも弾けて切れそうなほど引き延ばされ、緊張が緊張を上塗りしていくようなその空間。
にわかに内部と外部は逆転してしまったので、僕には何が起こったのかさっぱり判らなかった。あまりに急速に巨大化していく卵殻は、僕の意識をはぐらかすこと甚だしかった。

月がどんどん接近してくる。なのに月はどうしてこんなに小さいのだろう?
接近すれば大きな衛星であり、その地表に降り立てるはずではなかったのか。そんなことを忙しく考えて僕の頭脳はアイドリングされた。不思議と部分的に喪失が解除されていることに僕は気づかない。
なぜだ? 僕は問い続ける。問いが大きく膨らんでいくうちに、月はますます矮小化していった。僕は月に近づいているとばかり思っていたのに、誤りだったのだろうか。僕はあの月を食べなければいけないのに。

僕は、電力会社から届いた紙切れをを思い出す。もしかしたら、あの紙に全ての答えが示されていたのではなかったか。
僕は後悔に地団駄を踏んだ。また郵便箱をちゃんと設置しよう、もとの場所へ戻ったなら。そしてまた唇を噛んだ。



欲望に呑み込まれ、問いに取り込まれ、次々に僕の内部は外側へと反転していくことに僕は薄々気づいていた。白が黒になる瞬間の魔術は、いくら紐解けど辿り着けない。その転換点はどこにあるのかが判ったなら。きっとそれが電力会社からの通知だったに違いない。
後悔は燻る炎に油を注ぎ、爛々と輝く煙幕を上げた。既に葉脈も血管も押し黙っていた。温度計を見ると、水銀が沸騰していた。すぐ後、それは破裂して消えた。

僕は尺度を失った。何も測定できない。数値から見放されてしまった。そして自分がどれだけ数値に頼っていたか知らしめられた気がした。
僕には身長もない。体重もない。血糖値も白血球数も、数えられないならゼロと同じだ。既にそんなことは現状を見れば明らかだったのに、理解不能なほどの不安が僕を席巻した。僕はそれが不安という言葉で呼ばれていた感情であることにさえ気づかなかった。ただの強烈な不快と同じだった。全てが不快だった。

僕は不可能と知りながら、もう一度月に手を伸ばすという愚行を試みる。確信は結果を生むだけだった。月は遠ざかっていく。もしかしたら、僕の方が月から遠ざかっているとは想像も出来なかった。
全てのものに裏切られたような気がした。水銀にも地殻にも、クレーターにも。僕が欲するものはみんな僕から遠ざかっている。

僕は僕以外の全てのものを妬みはじめた。そしてまたその想いは僕から涙のように溢れ出ては、僕を呑み込み拡がっていく。僕から生まれ出たものが、同心円を描いて、こうやって宇宙のように果てしなく膨張していく。僕が外部に転写されて膨張すればするほど、僕は苦しみに追いやられるだけじゃないかと思った。僕はそのたびに引き延ばされる痛みと矛盾しながら、どんどん小さく小さくなっていく。

それならば、何も欲さず何も考えなければいい、短兵急に僕はそう結論づけた。
そう思った途端、僕の外部は拡がることを止めたような気がした。それは僕の錯覚かもしれない、きっと錯覚に違いない、僕は考えた。そしてまだ「考えて」いるじゃないかと思い、自分の頬を小さく叩いた。痛みはなかった。

本当は、月なんか食べたくなかった、そう思った。それに反して空腹は、僕のなかで新たに激しい主張を開始した。そして、今までの僕は空腹ではなかったことに気づいた。



勾玉が内部から光を発した。不透明な鉱石の群青が、シリウスの青をさらに受信した。
僕は目を閉じても閉じなくても、どこまでも浮遊していた。方向も速度も、完全に僕を見捨てていた。どれだけの時をそうして過ごしたか僕には判らなかった。

冥王星からの電波が、僕の周りを旋回した。いつの間にか僕のなかの勾玉は、植物の根のように、その波を緩やかに吸い上げることを覚えた。僕はそれを取り出してみた。何度も文字コードを変換しても、その情報は意味を持たない記号の羅列のままだった。僕は勾玉の内部にそれを戻した。勾玉は満足したように青く透き通った瞬きで答えた。

きっとそれも、電力会社からの通知だったんだろう。料金滞納につき僕の電源は近いうちに電力の供給をストップされるだろう。それでもいいと思った。
星が幾度か流れていった。僕は長い長い間目を閉じて、悠久の闇に身を投げ出し、ひたすら弛緩していた。眠っているのか目覚めているのかももう判らなくなっていた。それを問いただすこともなかった。



僕のなかの群青色の鉱石は、細かく振動を続けていた。ある時、その振動が若干大きくなったように感じた。気のせいかと思ったが、胸騒ぎはどんどん膨れていった。僕は目を開けて、僕の内部を見つめた。
勾玉は、発芽していた。ちいさな、いたいけな淡い緑の双葉がそこに映っていた。僕は目を見張った。
みるみるうちに芽は発育し、立派に成長を続けていった。今となっては、僕にとって時間の経過というものはまるで意味をなさなかった。まばたきひとつする間に、それは巨木へと変貌した。
それは、僕を燃やした、あの赤い巨木だった。

もう一度巡り会えたその巨木は、既に地殻を持ち、根を張って空へとそびえ立っていた。僕はようやく、自分の足も大地を踏みしめていることに気づく。その感触。何千年ぶりのような気がした。
巨木の幹は、僕の両手を伸ばしても抱き締められないほどの太さだった。それでも僕は、両腕を廻して右頬をぴったりと樹皮に添わせた。それはとてもザラザラとしていたけれど、僕にとってはむき立てのゆで卵のように滑らかだった。絹のスカーフのように、あるいは愛する女性の素肌のように繊細だった。

樹のなかで木霊する小さな小さな叫びが聞こえた。それはあの冥王星からの電波だと僕は直感した。僕は、新たな電力の供給源を得たことを知った。それは、その通知だった。
契約書にサインしてください、電波を翻訳して樹は僕にそう伝えた。僕は、乾いた爪でその樹皮に勾玉の形を刻印した。








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