黒曜石の伝説  2 ////// 2









魔女は紅い。何もかもが紅い。故に彼女の受ける風も陽光さえもが毒々しく染まる。石室に光をとどける小さな窓。ただひとつきりの世界との触れ合い。それすらもマルーンを怯えさせた。往来する足音。時に話し声。声はいつでも彼女を嗤っている。城から戻されてからずっと、暗い石のなかに籠もっているんだってよ。身の程知らず。諦めすら彼女には許されない。婚礼の日が暮れることはなかった。日付は凍りつき、マルーンの時は完全に止まった。目まぐるしく空が巡っていく。何故太陽は落ちてこないのか。
マルーンが城に上がったのは十七の夏だった。無口で訊かれたことにもたどたどしく答えるような少女は、その点を買われて王族の身辺を世話する係に選ばれた。あれから幾つの季節が去ったのかを指折ることすら、彼女の心を惹きはしない。
石室に差し込む光の筋が突然色を変えた。少しばかり薄暗くなる。マルーンは惰性のままに小窓を見上げた。一羽の鳥が留まっていた。
彼女は鳥の名前など知らなかった。うぐいすのように謡いはしない、蜂鳥のように激しく羽ばたきもしない。鳩のように足に書付けを巻きつけてきたのでも勿論なかった。有り得もしないことを想像した刹那の自分を罰する。
マルーンの頬は痩せこけていたが、磁器のように細やかな肌は未だに変わらずそこにあった。睫毛の影が延びている。艶めく黒玉が填め込まれたような眼。漆黒の表面を虹色がたゆたう。両親は彼女の病気を心配した。周りの人々の視線を心配するよりもはるかに。それはマルーンにとって救いだった。祈祷師を頼むと、父はなけなしの金貨を持ち出そうともした。マルーンが泣いたので、父は思いとどまった。母はマルーンのために石室に食事を運んだ。燕のような食欲だったがそれでも母は諦めなかった。ある日を境に、運ばれる貧しい食事がさらに貧しくなった。母はマルーンに謝った。戦のせいだよ。それまで、戦が始まっていたことをマルーンは知らなかった。
心が騒いだ。何かが動き出す。さらなる地獄に向けてのはなむけかも知れないが、それでも構わなかった。ルークは、戦場にあるのだろうか。彼が死んでしまえばそれで終わるかも知れない。何もかもが瞬きに消え去ってしまうなら。解けかかった豊かな栗色の髪を編み直しながら、また有り得るはずのないことをマルーンは考えた。この髪色が彼女の名の由来だ。手入れなど全くしないのにもかかわらず、彼女の髪は大変美しかった。
鳥はまだ留まっていた。物好きな子だ。いつでもおいで、こんなところで良ければね。マルーンは心で話しかけた。鳥は次の瞬間、飛び立っていった。



お前は敗けたがっている。ならば敗ければよい。預言者は告げた。夜の帷を深くまとって、魂は見透かせない。黒光りする焦げ付いたような皮膚。それだけが彼の情報だ。
戦に勝ち目は無いというのか。僕のことはどうでもいい。国のことを訊いているのだ。ルークは食い下がる。彼は憔悴していた。しかしそれ故に躊躇と無縁でいられる。
森の命深く、かつてこの場所には誰もその樹齢を言い当てられぬ大樹があったという。千年とも数千年とも言われたその樹。真実は伝承の曖昧さに紛れ、覆い隠された。或る夜、にわかに空がかき曇ると凄まじい雷鳴はとどろき、大樹に落雷した。その稲光を見届けたものは無いという。なぜなら彼らの目はそれを知るや否や瞑れてしまったからだ。雷鳴は不思議なことにたった一度きりだったという。そびえ立つ大樹に神の怒りが墜ちたのだと、人々は囁き合った。
どうしたらいい、撤退するべきか。
参謀はそれでも進軍を勧めていた。同盟関係にある湖水の国を裏切り白旗を揚げることで、その強大な国を新たに敵に回すことになるやもしれない。ルークは妃の名を口にした。参謀は首を横に振る。王妃様は人質にはなり得ませぬ。
焼け焦げた大樹は不可思議な角度に裂け、内蔵をさらけ出し両手を縛り上げられた巨人の剥製のようだった。請いもとめる者は、闇の粒子の描き出す楕円形に寄り添わねばならない。その貌が箇々の色をものともしなくなる迄、世界に沈み込むのだ。意見を捨てよ。主張を折れ。預言者は彼にとっての序章をまた繰りかえし朗読する。そして続けた。
お前は伝説を創るのだ。迷ってはいけない。
預言者の言葉は、それまでとは明らかに違う音色で奏でられた。ルークは、亡き父の声をそこに重ねる。彼には信じ難かったが、彼の耳はまさに父の声そのものと受け止めた。詩を愛し、痩せ衰えた白い頬をいつも紅く燃やしていた病身の父。しかしその声だけは容姿と不釣り合いに低くまろやかで、暖炉に薪が燃えるときのあたたかな色を思わせた。
ルークのなかを、様々な想いが無遠慮にぶつかり合い駆け抜けた。撹拌されたまま沈まない。預言者は姿を消している。そこには巨人の亡骸。彼は大樹に頬を寄せる。両腕を広げても抱きしめきれない。肉付きの薄い頬の輪郭がうっすらと闇に浮かび上がる。父譲りの金の絹糸のような髪が大樹の皮膚の上に柔らかく広がる。
お前には、もう私は必要ないだろう。お前は、お前自身の源と繋がる術を覚え始めている。求めよ、さらば与えられよう。そして石をも穿て。汚れた血は時に、流れることで浄められる。憶えておくのだ。預言者の言葉は大樹の内部から響いた。父の面影はそこにはもう無かった。



乾ききった風に砂塵が舞っている。見はるかす限り他に動くものは何もない。国境の地には夥しい屍が雨のように降った。踏み入られたルークの軍隊はそれでもよく持ち堪えた。
ルークは撤退を既に決意していた。敵軍に遣いも送った後であった。参謀の懸命の主張を、彼はもう聞き入れることはなかった。完全な降伏。属国に成り下がることも厭わない旨。そして王妃の命は保証され、無事湖水の国に送還されること。湖水の国と敵国の数十年に亘る骨肉の争いは、未だ鎮静に向かう萌しすら無い。
原野は尖った血の匂いと呻き声であふれかえっている。家族の元に間もなく帰れることを疑わずにいた兵士達は不意を打たれ、うろたえ我を忘れた。遣いの者は辿り着く前に息絶えたとしか考えられなかった。王の意志は敵将に届いていなかったのか。
お判りでしょう、私は間違ってはおりませんでした。参謀は血に咽せながら低く告げる。ルークは口元にあふれる血を拭ってやる。疵は深かった。
私が今までに誤ったことがございましたか。否、無かった。ルークはうつむく横顔で応えた。かさかさと草が揺れる音がする。風は無い。野兎が血の匂いに怯えているのか。疵を押さえる参謀の両手は隈無く深紅に染まる。闇が全ての色の鼓動を断ち切る為、それはむしろ何処までも黒く光って滴る。
ルーク様。参謀の声色からはいつもの鋭角が失われている。大変美しく響いた。ルークは瞳が揺れてしまうのを不器用に隠しながら、参謀の柔らかく閉じられた瞼の上に視線を落とす。彼の血糊の滲んだ頬は幽かに微笑みをたたえていた。
夢に見るのです、あの少女の顔を。参謀は続ける。
あんな顔を、他に見たことがない。私はあのとき、一度だけ、間違ったのかも知れませんな。ルークには言葉がない。沈黙に身を委ねきる。
私が告げたのです。ルーク様はやがて王位に就かれるお方だと。本当に彼のお方を想うならば、お前は自らこの城を立ち去るべきではないのかと。あの娘は本当に、訳も告げずに突然姿を消したのでしたな。言葉は途切れ途切れにこぼれる。涌き立ての清らかな泉のように。泉のはたには、真白い影の落ちる昼下がり。槍を手にした兵士達に囲まれてマルーンは通り過ぎていく。人形のような貌。何もかも凍りついた故に、多分それは全てを映し出す鏡。その氷盤には全ての答えが映し出されていた。僕は何故見過ごしてしまったのだろう。倒れた聖杯。後ろ姿が遠ざかる。世界が湖の底に沈んだ日。ルークはもう一度見届ける。
あの娘が側にいたとしても、王位を継ぐ決心をして下さいましたか。
ルークは衣擦れのひとつも立てず、ゆるやかに頭を横に振った。そうでしょう、でしたら私はやはり正しかったのです。ルーク様。ひとつお願いをきいていただけますか。草が擦れる音が再び。それは野兎ではなく、小さな鳥の羽音であった。草叢に降り立ち、身を潜めるように鳥は双翼を折りたたんだ。
何なりと申せ。ルークの声は濡れていた。どうか貴方様の手で私を楽にして下さいますよう。参謀の声は端々がすでに音をなしていなかった。微かな意識の痺れがその意思を伝達する。
ルーク様の弱点は、情にほだされすぎる所でございます。分かっている。
ルークは短剣を抜いた。草叢から鳥は飛び立った。





野戦場には大粒の雹(ひょう)が三日三晩降り注いだという。短い夏は終わりを告げていたとはいえ、到底有り得る筈の天候ではなかった。生き長らえたものは命辛々逃げ帰った。民は彼らを沈黙のうちに迎えた。しかしそこに王の姿は無かった。雹が止むのを待つ三日の間に、ルークは何処へか姿を消したのだった。王の屍を見たものはなく、誰も史実を顕わにすることはできなかった。
おどろおどろしい沈黙が城を覆っていた。王妃は湖水の国に引き戻されることを拒んでいた。王も、彼を支えた参謀も亡き今、国はその顔となる人物を弥が上にも必要としていた。王妃は悲しみと野望を天秤にかけた。答えは明らかだった。こうして彼女は政を司ることとなった。
敵国は一気呵成に、湖水の国にも更なる攻撃を仕掛けた。王妃は敵国に媚び、その勝利の暁には属国となる意思を密かに打診した。そして母国に対してはあくまで同盟を保つ意思を涙と共に語った。彼女の天秤を操る手は、まさに水を得た魚と形容されるに相応しかった。
湖水の国と敵国との戦はどこまでも膠着し、未来永劫続くかと思われた。両国は日に日に消耗していく。それを傍目に王妃は、国の荒れ果てた土地を生き返らせることに心血を注いだ。王妃の思惑は的を射ていた。眠った土地から、幾ばくかの砂金や高価に取引される鉱物が発掘され始めた。



浮世に漂うことを止めて久しいマルーンにも、戦の結末は口伝いに届けられる。彼女の叶えられる筈のない望みは叶えられ、若き王は命果てたのだった。マルーンは身を震わせて泣いた。泣き暮らした。しかしそれでも彼女の生活は何事も変わっては見えなかった。砕けた岩の上にも埃は積もり行く。ひとつひとつ残された太陽を塗り潰していく。強いられた作業はそれだけ。転生したルークの姿を思い描く。そのときにはきっと私を見つけてくれるだろう。
ことりと石室の床に何かが落ちた音がした。微睡んでいたマルーンは、無理矢理に差し込む午後の陽光に連れ戻される。石の継ぎ目を縫って小さな黒い物が転がる。這うように近づき、拾い上げたのは小さな鉱石と思しき物だった。磨かれていない黒い硝子質の原石。所々に雪片のように白い斑点がある。
窓枠に鳥が留まっていた。鳥のくちばしから落ちたものとしか考えられない。不可思議な出来事にもマルーンの瞳は光を宿さない。鳥は機械的にくちばしを左右に動かした。何かを促す暗号のような所作。マルーンは小さな黒い塊を左手に握ってみた。温かかった。否、冷たすぎる故に温かいように錯覚したのか。まるでちっぽけな塊のなかに分厚い空洞が隠れていて、そこに激しい力で吸い入れられていくような感覚。大小が逆さまになって、全ての価値が反転して、激しい眩暈が永く続く。マルーンは驚いた。阿片のようなその塊。
その石は黒曜石と呼ばれた。この鉱石の破片は非常に鋭く、古来から刀や矢尻などに使われてきたのだった。マルーンはそれを知り、その塊で手首を擦ったりしてみた。それは哀しいが無邪気な遊びだった。老いた両親を残して先立たないだけの優しさを彼女は保ち続けていた。
不可思議なことは外でも起こっていた。兵士達の屍が散った野戦場の跡に、有り得ないほどに大量の黒曜石が見つかったのだという。しかもそれは大変良質で美しい石だった。一様に深い闇の黒。そして白い斑点のあるもの。なかには、柘榴のような赤褐色のものや、表面に虹が薄く揺らめく美しいものも。マルーンは父からそれを聞いた。町でそれをただ同然に売り歩く男がいると。
男は煙るような金の髪を肩に届くほどに伸ばし、痩けた頬を髭に隠していた。長きに亘る旅に疲れ切ったような風体。それらに紛れ、誰も彼の顔をしみじみと覗くものはなかった。ルークは担ぎきれない程の石を戦場から持ち帰った。希少な虹色の浮かぶ石は特に珍重された。天が降らせた雹が化身したとも、散り急いだ魂が石の姿をとって具現したとも思われた。彼らを在るべき処へと返してやること。それを業と名付けても良かっただろうか。その傍らで、ルークは出会う人には必ずそれとなく訊ねるのだった。マルーンという女を知らないかと。とある路傍で雨宿りをする間、噂話を食べて生きているような、大きな目をした年増の女が言った。ああ、王子様に遊ばれて捨てられて、気狂いになったあの女のことだね。



薄暗い石室を誰かが訪ねることはかつて一度も無かった。マルーンは弾かれたように飛び散った。他の出入口があったなら、雷鳴に怯えきった子犬のように狂い、何処までも走り抜けてしまったかも知れない。窓から遠慮がちに入り込む陽光のなか、灯籠のようにぼんやりと浮かび上がった白い顔。その刹那ははっきりと瞼に焼き付けられた。やつれてはいたが、少し窪んだ目は、瞳にたゆたう虹をより際だたせていた。どことなく拗ねたようなかたちの口唇。晩秋の吐息のような髪の栗色。歳月の重みに擂り潰れたものは何も無い。
マルーンは石壁に体当たりするようにぶつかり、その場に砕け、崩れ落ちた。そこには差し込む陽が当たらない。薄闇に目が慣れない。ルークは花弁に遊ぶ蝶に近寄るときのように、静かな一歩ずつを踏みしめる。マルーンは震えていた。人はこんなにも震えることが出来るのかと驚く程に。立ち尽くす。自分の躯が自分のものでないようだ。
声が聞きたかった。だが自ら一言も発していないことに思い当たる。迎えに来るのが、こんなに遅くなってしまって。もどかしそうに担ぎ込まれた言葉には、それでも確かな温かさ。返答は無い。
落ちる長い影に、斜めに引き延ばされた橙色の羽ばたき。ルークは小さく指笛を吹く。窓枠に留まっていた鳥はいつも全てを見届けている。鳥は従順にやってきてルークの左肩に留まった。塵が舞った。細やかな羽根の群のように橙が香り立つ。太陽は名残惜しそうに天球を滑っていく。石壁に描き出される光は刻々と角度を変えていく。誰も何も動かない。空だけが動いている。目を瞑る間にきっと、幾千万の昼が昇っては沈んだ。
ルークは、マルーンから少し離れて石壁を背に座り込んだ。神の手で配置された二つの岩。波を受けつづける。世界中の波濤が高鳴っていった。
マルーンの掌から滴るように小さな石が落ちた。大地に蒔かれた最初の種のようであった。拾い上げる。眸をのぞき込む。憔悴しきった、しかし怖れの消えた二つの黒曜石が、静かに光っていた。夕日に召還されたように鳥は飛び立つ。茜に溶け行く。二人はそれを見届ける。



伝説は誰にも知られること無く此処から生まれようとしていた。大きく澄み切った空は眩しく溢れ、世界にとろけていく。いつでも此処で貴方は待っているはずだった。言葉を聞く耳を持つ。すると言葉が聞こえる。
草原には、穏やかな小春日和を祝うかのように、名もない花々が咲き乱れたという。散った命の数、涙を流した命の数だけ。ありったけの雲が落ちて敷き詰められたようであった。草原は、空を映す純白の鏡となった。
やがて、湖水の国と敵国との戦は終わりを告げる日が来た。それは既に戦を続ける力が尽きたための、両国ともの無惨な敗北であった。新たに発掘され始めた鉱物は他国に高く売ることが出来た為、日々国の懐は安定して来ていた。王妃は国を豊かにした救世主として民に崇められた。彼女がその手腕によって隣国を平定する日も近いことだろう。
その男が死ぬ。ひとつの時が死ぬ。伝説は生きる。預言者の台詞通り、こうしてひとりの王は死んだのであった。王冠を脱いだルークは、市井に慎ましく暮らした。彼の出自に疑いを持つ者は誰も無かった。もとより王の顔を近くからまじまじと見た者など誰も無いのだ。或いは、国を治める者の姿形などに誰も関心がなかったのかも知れない。民は今日という日を暮れさせるのにいつでも手一杯なのだから。マルーンの父は彼に鍛冶仕事を教え込んだ。ルークは元来大変器用な青年であった。砂に水が染み込むように彼は腕を上げていった。
マルーンは、鳥が運んだ黒曜石の小さな原石をいつも肌身離さずに暮らした。阿片のようだと感じられたその気性が変わることは無い。しかしいつの日か、寧ろ彼女を護る呪符となって寄り添い、振れ動くようになった。石と仲良くなったのよ。彼女ははにかむように微笑った。やがて、僅かながらマルーンの病は癒え始めた。春の訪れとともに彼の草原に向かうのだ。花々の白い絨毯に兎とともに戯れ、無数の魂のため祈りを捧ぐことを、ふたりは契り合った。








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