Trap








赤黒い峡谷に男が橋となって架かっていた。
その眼窩には一度取り出して力ずくで再度嵌め込まれたような、ぎこちない角度の眼球が静止している。
峡谷とは言っても、大地が僅かに裂けた150cm程の割れ目で、しかしその断層はどこまでも深く闇に呑まれ、地軸に達するかと思われるほど。
男は背中を日に晒しているために、半面のみが焼け焦げている。
男の目が私を捕らえた。義眼に光が走った。
この橋を渡りたいのかい? その眼は私の意識に直接訴えた。
私は静かに頷いた。
見渡す限り、赤黒い大地が続いている。大地と空の境目が弾き合い、排斥し合い、互いに痛みを叫んでいるかのようだ。限りなく無に近い地獄絵。

ここを渡りに来た人間は本当に久しぶりだと、男は音のない声で呟いた。
私は押し黙る。
地平線が躙り寄るように僅かずつ私に近づいてくる。世界は縮小しやがて消滅する宿命と、かつて見た石碑にはそう刻まれていた。赤い土は秘やかに体積を裏切り、壊れそうに固く密集している。
私は立ち尽くす。岩石と化している男の硬度が私の中に牢記されるまで。

なぜ渡らない? 男の口元が歪んだような気がした。
岩を踏むのに何を躊躇している? 男の形をした岩石は畳み掛ける。
早く渡らなければこの裂け目は拡がって行くばかりだぞ。
男の両腕と両脚の筋肉は確かに小刻みに震えはじめていた。
褐色の石像の上に私は一歩を踏み出す決意をした。その瞬間、重なった幾千幾万の原稿用紙を一気にめくるように、すべての時が私の神経を走った。

私は男の背中に足を踏み下ろした途端、男の細胞の海に溺れ、吸い込まれ、沈んでいく。男の中に入り込んでいく。沸騰した体液のなかで組み替えられていくパズルが、カチリカチリと無情で冷徹な音を立てていく。水難した私の意識は遠のいて、時計の運針が秩序を失ったことを思い出したその頃、私は橋となって峡谷に架かる自分の姿を発見する。

男はかつて私の居た場所に飄然と立っている。
私を渡っていく男の足が突き刺さり、内臓が歪んで、膨らみすぎた風船のように破裂の危機感を愛おしそうに夢見た。
男は私を渡り終えると、振り返ることもなく、自分の歩み以外には何の関心もないといった様態で直線を貫き、陽光の中に消えていった。
私は次の来客があるまで、気の遠くなるほどの時を此処で橋となって、苦しみに悶えながら待ちつづけることになる。

未来を覗き込んだ鏡が、太陽の黄金を反射する。
走査され検証されたデータから、私はゆっくりと視線を逸らした。
男の義眼は消滅し、そのうろには闇が集った。
見てしまった未来は、体験する必要がない。
私は峡谷に背を向け、もと来た道を歩きだした。
背中に視線を感じることはなかった。





back