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映画「ヘヴン」をようやく見た。このページに以前書いたように、脚本だけ読んだのがもう数年前で、そのまま忘れかけていた。先日何となく自分の書いたこのページを読み返していて、ああそういえば…と思い出して、それ以来常に意識にあった。何となく導かれている感じ。
「ヘヴン」は、とてもシンプルで、瞑想的なリズムの映像。その淡々としたテンポが、作品世界の奥行きと繊細な深みを際だたせていた。理由が無く、直感的な確信がまずはじめにあって、世界はその一途に疾走する魂についていけない。その様はとてつもなく美しい!
私のなかにある感覚に本当に近くて、親近感以上の物を捉えていたけれど、やはり思った通りで、見て良かった。
でも、今の私は、世界を追い越さなくても、どこか遠くへ行かなくても、今ここに天国があることを知ってる。
過去の自分と決別できたような、不思議な感覚。
ふとヨーロッパの教会に行った時のことを思いだした。フランキンセンスやミルラの数百年にわたり焚き込められた香り。石材があたかも呼吸しているかのようで、冷えて研ぎ澄まされた空気が意志を持っている。そこで祈りを捧げた数え切れない人々の魂が確かにそこに息づいている。戦慄、殺気に近いような、重々しい荘厳な空気。
祈りは、香りと同じように目には見えないけれど、確かな物質として存在すると強く感じられた。祈ることは、私が考えるよりずっと確かな行為だったのだと思えた。
困難を克服して活躍した人達を賞賛する声が巷に溢れていて、いつも憂鬱になった。私にはとてもそんなことは出来ないし、惨めになるだけ。立派な人達を見て、勇気をもらったとか感動したとかいう人達の気持ちがまるで分からなかった。そんな風に思える人は、対象と自分を同一視しているんだと気づいた。自分もあんな風に困難を超えて輝けるかも知れないと考えられるから勇気をもらったと思えるんだね。
母の昔話によると、私が小さい時の授業参観で、先生が誰でも答えられるような質問をして手を挙げさせたところ、クラスのほぼ全員が元気に手を挙げたのに、私ひとりが手を挙げなかったことがあったそう。 手を挙げて指名されて答えなきゃいけないなんて、面倒くさいし、こっ恥ずかしいし、まっぴらご免だと確かに思っていた。でもそれで逆に目立ってしまっていたなんて。
どうしようどうしようって決められない時、不安な時、だいたい自分にとって損か得かで考えてるんだよな。自分で決めようとがちがちにならないで、流れに任せて、なるようになると思うことで利己的にならず、楽にもなれる。
より善く生きたい、幸せでいたい、立派でありたい。それって、 善く生きなければいけない、幸せでなくてはならない、立派でなくてはならない、って置き換わってくると苦痛でしかなくなる。なんでもOKなら苦痛もない。
いつ死んでもいいし、別に幸せに生きなくたっていい。善く生きなくてはいけないというプレッシャーから自由になる。
天気予報で日本地図を見ていてふと思った。日本のカタチはこんなふうだとされているけど、私はそれを見たことはない。大多数の人も見たことはないはず。
新幹線に乗ってたとえば名古屋に行ったとして、どこをどう新幹線が走ったのか、そんなことは考えない。ただ着いたホームに名古屋と書いてあるから、名古屋に着いたと思っているだけかもしれない。飛行機に乗ってパリに行ったとして、地球の上にそんな都市があるかどうかも実は確かめたことなんてない。降り立ったところがその都市だというのも、みんながそうだと言っているからそう思うだけ。
全部全部、世界中のなにもかも、そうだとされているからそうだと思っているだけかもしれない。
バカみたいだけど。
大きな力が私たちを眠らせて、催眠をかけているのかもしれない。巨大な世界の夢を見せて。私たち自身の力で夢から覚めることは出来ない。それなら、出来るだけいい夢を見るようにしたい。こんな夢を見たいんだとこっちから働きかけるくらいのつもりで、夢を積極的に見る。
でも、所詮夢は夢だし、たいして深刻になることもないし。
少し早く目が覚めて、窓を開けたら透明な空気が流れ込んできた。秋の結晶がまだ溶け出さずにサラサラと鳴っているようで、昨夜の満月から降ったしずくを胸一杯に吸った気がして、背筋がきーんと浄められたようだった。世界が細やかな光りで少しだけ白くなったような感じ、繊弱で、軽やかになった心。この気持ちを時々思い出したい。
与えられた才能を「gift」って表現するの、なんかいいと思った。そう思ったら、他人の持っているものに嫉妬もしなくなるだろうし、自分の持っているものに感謝も出来るでしょう。全部天からもらったものだから。
久し振りに夕暮れ時に散歩。暮れかかった空の色は刻々と色を変えていく。ブルーブラックのインクを水で薄めて、空全体に注ぎ込んだような透明な色だった。西の空にだけわずかにピンク色の陽の名残が囁いている。インクの海の上にかすかに白い雲が幾つか浮かぶ。こんな時刻にも雲が白く見えるんだ。西の空低くに、裸眼の私にでも見える明るい星が光っていた。
通りすがりの家で、庭の植物に水を撒いていた。水しぶきが柵の外の道路にまでまき散らされていたけれど私は気づかずにそこを通りかかった。一瞬だけ、細かく柔らかい霧のシャワーを浴びた。それが、なぜだか、とてつもなく気持ちよかった。
風は程良く強く、何もかもが絶妙に編み上げられた完璧な世界だという気がした。こんな気分になったのは久し振りで、大切なことを思い出させてくれたような気がした。特別な場所に行かなくても、美しさは傍にあるんだね。
みんなほんとのことをうそと思って、うそばかり信じてこわがってるの。うそばかり大切にしてそこに安住しようとしてるの。それだけ。そんななかにいることはない。
社会は世界のごく一部なはずだけど、対立するもののように思えたりしてた。社会が世界と同じ意味と考える人もいる。
社会は、世界の中の「間違い」を集約して成り立っているみたい。すべてのマチガイが生き延びるために計算され編み上げられている。そしてマチガイでないすべてを否定する。
でも、マチガイでないすべてはマチガイを否定しない。
限りなく大きな数でもなく、小さな数でもなく、ゼロになりたい。
ふれあうものすべてをゼロに変えてしまう絶対的な引力と雅量。
無であるはずなのにすべてを超える力を持つ。
決して目立たない、何も主張しない、その必要がない。
ただそこにある透明なゼロ。
競い合う他の数字なんて、すべて無意味にさえ思える。
生活のあらゆる局面でも、表現することにおいても、演技をしている。こうあるべきと思う姿に、こうでありたいと思う姿に自分を傾けている。ほとんど無意識に。意識して演技をやめようなんて不自然なことをしなくちゃいけない。
演技していない自分の姿が見つからず、探しつづけなくちゃいけない。
自分という枠を超えるために、その枠の形を知らないといけないのかな。
生命は元来残酷なもの? それはそうかもしれない。でも。
切り花は生首みたいでグロテスク。殺されて腐り行くまでを鑑賞している。土に根を下ろす花でも、チューリップやひまわりはたまらなく恐ろしく感じる。
恐ろしいという表現で正しいか解らないけど。背筋がぞくっとして身震いがする。黒ずんで首を折り曲げた、枯れかけのひまわりがその中では一番美しいかもしれないと思う。
人間の子供も、時々すごくグロテスクで恐ろしく思う。
それは私の心にあるグロテスクなものがそうさせるのでしょうか。私こそがグロテスクなのでしょうか。私がグロテスクでなくなったら、何を見ても愛らしく思えるのでしょうか。
一番いいのは「ヘタウマ」、次は「ヘタヘタ」その次が「ウマウマ」、最後が「ウマヘタ」って誰かが言ってた。何となく同感。
絵本「百万回生きたねこ」。
自分のことが誰よりも好きだったねこ。白いねこと出会って、はじめて自分よりも好きな存在と出会って、そしてもう生まれ変わらなかったんだって。
その人のことを、自分よりも好きと思える?
自分のことをすべて二の次にできる?
自分がどう思われてるかばかり気にして、その人の気持ちを察してあげられなかったら?
小さい頃は、運動が苦手なことがコンプレックスだった。小学校低学年くらいの時は、とにかく運動ができる子がスターだったから。
学校の体育で、鉄棒のさかあがりを妙に徹底してやるのはどうしてなんだろう。出来る子とできない子と分けて、できない子には補助をつけたりして、しつこく何時間も鉄棒をやった記憶がある。何が何でもできるようになりましょうみたいな感じで。私は当然できなくて、口惜しい思いをしたので、ひとりで一生懸命練習をした。家に簡易折りたたみ式の鉄棒まで買って貰って、腿に痣をつくりながら毎日練習した。
小学三年のある夜、突然できるようになった。コツを掴んだら何度やっても軽々とできた。その瞬間は、とても嬉しかった。
でも、翌日になってやってみると、なんだか馬鹿馬鹿しくなった。さかあがりができないことがどうしてそんなに大変なことだったのかな、と。さかあがりのできるようになった私は、さかあがりのできなかった私と比べて、何がどう変わったというんだろう。強烈に虚しいと思った。 あんなに努力して手に入れたのがこんな虚しさではやりきれないと思った。さかあがりのできないままの私で良かった。それを受け入れられさえすれば良かった。
望遠レンズで、被写体にだけピントがあってて、背景は完全にぼやけているようなのが好きなんだ。魚眼レンズで、いろんなものが視界に否応なしに入ってるようなのは、生理的にもうだめなんだ。曖昧にしておきたい。知りたくない。
いろんな人のいろんな世界観(っていう言葉はなんか嫌いだけど)、いろんな波動(のようなもの)に触れると、すぐに自分の足下がぐらつく。脆い自分が嫌。はじめ、他の感覚を素晴らしいと思う。だけど、それによって何か変化が起こる訳じゃなく、やがて息苦しくなり、ただ拒絶してしまう。慣れ親しんだ、自分の中に受け入れても大丈夫な安心できるものだけを受け入れている。大丈夫なものは、とても少ない。取捨選択する作業が疲れるから、扉を閉ざすことが多くなる。それがとても悪いことをしているように感じられていた。
全てのものをフィルターに通して刺激を弱めてから接しているみたいで、何に対しても心が動かなくなってるみたいで。心が動くと痛いから、考えないようになった。この世界のどこかに光がある、それで良いような気がして。自分の中のどこかにも光がある。全て明るくしなくても、どこが明るいか突き止めなくてもいいんじゃない。
願いがあるから、苦しかったりするんだろうけど、なにがなんでも願いを叶えてちょうだいっていう欲もなくなって。もう疲れて疲れて、仕方ないだけ。でも別に、疲れないようになりたいわけでもない。
公明正大で博く愛に満ちあふれ、向日葵のように生きている素晴らしい人よりも、破滅に向かってブレーキのいかれた車で突っ走るような不安定な愚かしさにどうしても惹かれる。失うことこそ目的みたいに、安寧を憎むかのように。その悪夢はたぶん美しい。
自分のことしか考えないのは、楽しいことじゃない。むしろ苦しいこと。苦しみは麻薬で、その味を知ると必要とするようになるのかもしれない。そこに溺れるのは、それが快楽だからなのかもしれない。だから甘美な罪悪感が伴う。それもまた美しいと感じても不思議じゃない。
そうだとしても、私はもう苦しいのは嫌だけど。美学なんてなくてもいいから。
日常の何事もない時間の連続が、とてつもない奇跡の上に成り立っている脆いものだと気づく時、少し気が遠くなる。どうしようもない力によって剥奪されるならその前に、自分で放棄できたらいいのにと考えちゃったりもする。気づくと逃げることばかり考えている。
享楽が当然のように人生の義務になってしまってるのが、とても苦痛なことに思えたりする。知ることも、遊ぶことも、食べることも、買うことも、何に接することも、なんだか疲れる。
疲れないことを、したい。大切なことは疲れないはず。それ以外何もしたくない。
戸籍もなく、誰にも知られていない、名前もない。そういう存在になってみたい気がする。誰かにペットみたいに飼われていないと生活できないけど。社会的に完全な無になってみたいな。
誰々さんの奥さんとか、誰々ちゃんのママとか、自分の名前で呼ばれないことに違和感っていう人も良くいるけど、名前を消して存在できるなんて、ちょっとドキドキする。
「運命は変えられる」とか「自分の思いが未来を切り開く」とか、そういうのってもう疲れた。どうやっても変えられない時、全部自分のせいになってしまう。どこか体の具合が悪くなっても、自分の考え方に歪みがあるからその現れとして病気になったんだ、とか、そんな風に考えてしまう。歪みを正そうとして足掻いて、それで新たな歪みを生んでいるような気さえする。
黄色系の服を私はほとんど持っていなかった。オレンジや黄土色なども含め、なぜか距離を置いてしまう。それが最近何となく、黄色いものを身につけたいと思った。それでまた何となく、少し緑がかったレモンイエローのものを買ってしまった。
やっぱり着てみると落ち着かず、地に足がつかず、どうしようもなく変な感じ。自分でなくなったような感じ。
自分の中ですべての色が揃っていない、そんな気がしてた。何でもいいから些細なことでいいから、変化をつけたかったんだろう。けど、力業でどうにかなることではなかった。変わったのも気づかないくらいに変わっているというのが自然な姿なんでしょう。
そういえば、沙棗花の香りも何となくこの頃思い出し、気になっていた。沙棗の花も黄色い花。
黄色といってイメージするのは、狂気めいた気配。ゴッホの絵のような感じ。触れるのがどことなく怖かった。触れてみたら何かが変わってくるのでしょうか。
魂が嘔吐してる。澱んだ光に満ちた場所には澱んだ魂があって、そんなところには二度と近づきたくない。気配は感じたのに。直感を信じなかった罰。
もう闇しかないと思った時、そこには光しかないのかもしれない。
真っ暗な闇の中では、どんな小さな光も眩しいくらいに感じられるでしょう。
どんな光でも思いのままに描けるでしょう。
ほんとうのことは、たいていが逆説的。
「うれしい、たのしい、幸せ、愛してる、大好き、ツイてる、ありがとう」などの言葉を常に唱えるよう心がけていると、本当にその言葉を言いたくなるような日々に恵まれる。特に、「ありがとう」という言葉を、心がこもってなくても構わないから言い続けて、その回数が二万五千回に達すると、奇跡が起きる。
ネットをふらついてて、こんなことが書かれてるのに出会った。
人の幸せそうな表情より、哀しむ表情の方が美しいと思ったりする。
そんな感じ方が変わらないと、私自身幸せより苦しみの多い日々を過ごすことになるの?