民族学校問題へのかかわりのなかで
ー民族学校問題は日本人自身の問題である
江原 護
「人間にとって、どこの地に住もうとも、自らの民族の歴史や文化を継承・発展するための教育、民族教育を受ける権利は等しく与えられるべきものではないでしょうか。日本における民族学校は、戦前・戦中における誤れる国家政策とその後の歴史的背景のもとに、民族の心を継承・発展し、歴史や文化を学ぶ場として設立されたという経過を持っています。この民族学校に対しては、他の私立学校と比較して、行政からの助成金も圧倒的に少なく、更に卒業生に対し大学受験資格を認めないなどの制限が加えられています。
私たちはこのような現状に対して、日本に住む者は全て自らが選択した教育を等しく受ける権利を有し、また保障されなければならないと考えます。そのことは、地域社会において何人も差別されず、平等に生きていくことの保障、すなわち、人種・民族を問わず共生していくという思想、民主主義の問題でもあります。」
これは「民族学校を考える会」賛同呼びかけの一節ですが、私たちは「日本の社会を構成する同じ一員であり、京都という同じ地域に住みながら社会的権利が制限されている在日外国人、とりわけ在日韓国・朝鮮人の子弟のための学校、民族学校について、その教育援助は日本人学校と同等に扱われるべきだ」として、民族学校について考え、処遇改善を進めて行こう、その運動は支援・応援していくことではなく、日本人自身が問われている問題であり、日本人が意識改革も含めて、自らの運動として取り組んでいかなければならない課題だとして「民族学校を考える会」を発足させました。
日本人の大多数がこの民族学校の問題について知らず、意識せず、教育権という最も大切な基本的権利を蹂躙している恥ずべき現実のなかで、また文部省を頂点とする教育行政の厚い壁が立ちはだかっている状況があるにせよ、小さな力であっても取り組まなければと活動を続けています。
大きな厚い壁、難しい状況であろうとも私たちは希望を持っています。それは私たちのささやかな呼びかけに、賛同され戦列に加わって頂く方々が増えていること、京都大学でもOBの諸先生方を含め100名近くの賛同者があり、確実にこの民族学校の問題に取り組まなければならないと考える日本人が生まれているということです。さらに、民受連の活動に参加されている若い皆さんが存在しているということです。
また、地方の行政に対する要請・要求交渉のなかで、例えば京都府立医科大学や京都市立看護短期大学が民族学校出身者に受験資格を認めることになったことなど、あるいは京都大学のなかでも問題を取り上げざるをえなくなっている状況など、ほんの針の穴ほどの小さな成果であっても前に向いて進んでいることが確認できるからなのです。
国立大学、その設置者である文部省に民族学校出身者の大学受験資格を認めさせるのは今の状況の中では至難の課題でしょう。しかし、とにかく声を上げる。この声を大きくしていく、そして学内の論議を引き起こす。このことが最も求められていることだと思います。
これからの社会を担う若い皆さんが、世の不条理を正し、情熱を持って運動を進められることに期待しつつ、ともに運動に取り組みたいと思います。
長い引用になったが、この一文は1997年11月、民受連(民族学校出身者の京大への受験資格を求める連絡協議会)の若者たちにあてた私のメッセージである。私が民族学校問題にかかわりを持ち、感じたこと、やっていきたいことを率直に述べたものであった。このときの心情、思い入れは今も続いているし、これからの私の運動の精神的支柱ともなるべきものである。
1973年、金大中氏の拉致事件、救出運動を行っていた京都の女性グループが日朝の友好を築き上げたいと、日朝友好促進京都婦人会議を立ち上げた。そのグループは「お勝手口から今日は」を合言葉に、日本の中に残るさまざまな朝鮮文化をたずね、あるいは朝鮮料理講習会に日本人も呼び込んで楽しむことから朝鮮文化に触れ、日常の生活の中から日本人と朝鮮人の友情を育んでいこうという運動であった。その活動は30年にわたり続けられているが、その30年もの長い活動の中で、例えば国鉄・JRの通学定期割引制度の差別性、民族学校に対する行政による教育助成金のあまりの低さ、それらの処遇改善の運動を通して、民族学校がいかに日本社会の中において差別されているのかが強く認識されていくようになった。
このグループに10数年前、事務局としてかかわりを持ったことが私の民族学校問題に関係するスタートとなった。朝鮮学校卒業生には大学受験資格どころか、理容師や美容師の学校にも受験資格がないという、制度上の差別があることを知り、「一体これはなんなんだ」と怒りを覚えたことを思い出す。
当時、おりしも京都府立大学が朝鮮学校出身者の受験資格を認め、そのニュースを聞いた朝鮮学校卒業の京都大学学生が「なぜ俺たちはダブルスクールで、しかも大検までとらなければ京大に入れなかったのか、大きな問題だ、差別ではないか。」と運動をはじめた。この学生たちとの出会いが私に民族学校問題に大きく足を踏み入れる契機となった。
学生たちが運動を立ち上げて大学当局と交渉を始めても、当局は認知しない、文書を受け取っても回答は出さない。この状況をみたとき、学生が純真な思いでやっているのに、我々外部の人間がタッチしない、黙ってみていていいんだろうか。学生の運動を外に広げることが我々に課せられた使命なのではないか、自問自答しつつ、日本人として、一市民として何か出来ることはないだろうか、と考え「民族学校を考える会」を立ち上げた。
学問の都・京都という環境もあって、国立大学をはじめ各大学の先生方、宗教家、文化人、さらに特徴的なことは一般市民である主婦にまで呼びかけ人になっていただき活動をスタートさせた。その活動は、とにかく民族学校差別の実態、その本質はどのようなかたちで見えているのか、まず学ぼうと学者や現場の先生方、差別をもろに受けてきた学生の発言を聞こうと、5年にわたる連続講座の開催、シンポジウムの開催を通し問題点を顕在化させてきた。その講座の内容を資料にして多くの人に見てもらう。
そのことを通してこういった運動をやっている市民がいること、その存在を知ってもらう。行政にも言いつづける、処遇改善を求めつづける。マスメディアにも一般市民にも知らせる。このなかからいかに日本社会が民族差別を、民族学校差別を放置しているのか意識してもらう。このことの繰り返しが私の運動だったと思う。この運動の中で制度的にもっとも顕著に表れている民族学校差別が大学受験資格問題であったと私は強く認識してきた。(この間の運動の理念を明らかにしたのが「民族学校を考える」の小論だった。―民族学校問題を考える アジェンダプロダクション 刊 に所収)
2003年8月、文科省はこれまでの教育行政方針を大きく転換させる重要な決定を行い、9月にはそのための省令を改定、その内容は「外国人学校生徒に大学入学資格を与える」というものであった。(もっともこの決定には、「朝鮮学校などには、大学側の判断によって」という二重基準を持ち込み、外国人学校、民族学校間に新たな差別を持ち込むものでもあったが。)
この文科省の省令改定、指示を受けて、これまで民族学校出身者の受験を認めていなかった国立大学のほぼ全てが受験資格を認定していった。
この民族学校出身者にも大学受験資格を認定するという流れ(文科省方針)は、2002年7月に報道によって明らかにされてきていた。しかし、同年9月の「日朝首脳会談」、その際、明らかになった拉致事件をめぐってのマスメディアを中心とした日本社会の「朝鮮バッシング」によって方向がゆがめられ、2003年3月の文科省方針「アジア系の外国人学校を排除して大学受験資格を与える」という決定、発表へとつながっていった。この発表に私はまさに怒り心頭、直ちに全国に「全ての外国人学校生徒に受験資格を認めよ」とのアピールを発信し、撤回させる運動へと全力をかたむけることとなった。
03年9月の文科省方針は、「何ゆえにアジア系民族学校生徒から教育権を奪うのか」という多くの市民の声、「民族差別の当事者になりたくない」との国立大学教職員の声の前に一旦凍結され、あらたな方針として打ち出されたものであった。
そもそも民族学校は、日本という地域に生活する日本以外の民族が、言語・文化・歴史・伝統など民族的アイデンティティ、民族の心を自分たちの子どもたちに伝えていこう、との思いの中で設立されてきた経過がある。
これに対して日本の為政者は、日本国における教育は「日本国公民としての教育をすすめる」とし、日本以外の民族教育について否定する施策をとりつづけてきた。例えば1947年には在日朝鮮人児童・生徒へも日本学校への就学義務を出し、朝鮮学校閉鎖令が出された。この文部省方針について激しく闘われたのが阪神教育闘争であった。しかしその後も朝鮮人学校つぶしの方針が取り続けられてきた。1965年12月に出された文部事務次官通達では「朝鮮人としての民族性または国民性を涵養することを目的とする朝鮮人学校は、我が国の社会にとって、各種学校の地位を与える積極的意義を有するものとは認められない」と指示、この通達は「2000年4月の地方分権一括法の成立によって効力を失っている」(福島瑞穂参議院議員の質問主意書の回答)としぶしぶ認めるまで続いたが、明確にその方針の転換を宣言したものではないところに、その根源的な問題性が内包されているといえる。(前述 拙著「民族学校問題を考える」においてその内容は触れた。)
在日外国人とりわけ在日朝鮮人にとって、なぜ在日しているのかという歴史的な経過の中で、民族の心を伝えようとの強い思いが各地の朝鮮学校設立となって今日まで運営されてきている。その民族学校に対しては、住民と直接関わりを持つ自治体によって、アンバランスがあるものの教育費助成が行われてきた。しかし、国による助成は一切行われることはなく、唯一例外は阪神淡路震災による被災校への補助金支給のみである。ここにも民族学校を認めない、認めたくないという政府の方針は貫徹されてきた。
身近なところで民族差別が行われていること、そのことは日本社会のありようを写しているとの訴えは、それでも徐々に浸透し、この運動に参加してくる若者たちが民族の差異を乗り越えて増え、その声を真摯に受け止めたのが京大の教員であり、「民族学校卒業生に受験資格を与えよ」との京大同和人権問題委員会の最終答申であり、報道されることによってこの問題に対するうねりが生まれたと言って過言ではないであろう。
その結実が、しぶしぶであろうが、差別性をあらわにしているものであっても、民族教育を否定し、民族学校の存在を無視してきた文部省―文科省が民族学校出身者の大学受験資格(学校ではなく個人であろうとも)を認めたことであり、この一点について私は評価したいと思う。誰もが自らの希望する教育を受けることのできる社会が築かれることにつながるのだ、という未来への希望をもって。
民族教育、民族学校問題の運動に関わってきた私にとって、これからの民族教育はどういうふうになされていくのか、あるいは民族学校問題はどのようにしていかなければならないのか、運動はどのような展望を考えていく必要かあるのか、ここで考えてみたい。
朝鮮学校の場合、朝鮮学校の教育内容が90年代に入ってずいぶん変革されてきたと私は感じている。朝鮮学校の先生方と90年代はじめに講演会を持った時、現場の先生が初めて私たちの前で「在日として生きていくための教育を朝鮮学校でやります。」と言いきった。ずいぶん変化したなとある意味で驚いたことを覚えている。私が「在日朝鮮人と日本人が同じ社会をつくっていくための教育をやらないといけないのではないか。」と言うと、以前は大激論になった。しかしそのことを受け入れる、そういう方向性に朝鮮学校の側も変わってきている。カリキュラムも変わってきている。教科書の内容も変わってきている。
その方向性を踏まえながら、逆に日本人の側として民族教育の保障、民族学校、外国人学校をきっちりと法の制度のもとに置く。外国人学校法という法案の検討も含めて、民族教育を完全に保障する学校を法の制度のもとにつくっていく必要があるというのが現在の私の考え方である。これはこれからの運動課題になると思う。民族教育を保障するために、公立学校の中における民族学級が今のように課外ではなく、正規のカリキュラムに組み込めるような編成、行政にも学校現場にも、教育方針をつくること、民族学校の運営が保護者だけ過重な負担になっている現状の解消へむけての援助も含めて私たちは考えていかなければならないのではないだろうか。
さらに民族学校差別がどこから来ているのかということをもう一度きちっと踏まえておく必要があると思う。源流(蕃国思想)から始まって明治政府の皇国史観による教育貫徹、国民教育という名前のもとの日本国民をつくるものが教育なのだという為政者の考え方、と同時に植民地支配していた結果として生まれた在日朝鮮人の存在を治安問題としてしかとらえなかったという過程の中で日本の社会が、そういうことを易々と受け入れた、というよりそれに全部染まっていった、という社会が一貫して続いてきたのではないだろうか。そのことは過去の歴史をどう直視し、どう見るかという考え方、姿勢が日本人の中に弱いということであったのではないか。
しかしそのことについて考えよう、みていこうという流れ、動きが現在出てきていると私は思っている。朝鮮バッシングをあれだけやっていても、でも「今だからこそ声を上げよう」という人たちがいるという存在を意識したいし、そのことを確認したいし、一緒にやっていきたいというのが私の考えである。在日朝鮮人問題、民族学校問題というのは在日の人、民族学校に通っている子どもたちとその保護者、学校関係者など当事者だけの問題ではなく、むしろ我々日本人自身の問題であるのだと、自分自身に問い直す、自分自身で考えていくことがもっとも大切だと思う。
そのためにどうするか。「民際交流」、これは上田正昭先生が提唱されていることだが、国とか民族間の交流だけではなく、それぞれに生きている民衆と民衆の交流、その中からこそ相互理解、友好、友情が生まれてくるのではないか。民族教育はその民族が持っている言語、歴史、文化、伝統を学び、継承し、発展させるための教育であり、民族学校、民族学級はそのための教育機関である。したがってその教育に関して他の民族や多数者が介入したり妨害したりすることは許されない。むしろ多数者や他の民族はその教育を受けられることの保障に最大限の支援をすることが、共生をはかることの基礎である。そのことを確認したいし、一緒に考えていかなければならないと考えてきたし、これからもその方向で運動に取り組み続けたいというのが私の思いである。
「在日が住みやすい社会こそが、私たちにとって住みやすい社会」というのが私の考え方である。私はその考えで民族学校問題、在日朝鮮人問題に取り組んできたし、これからもその考え方を変えることはないということを結びの言葉にかえたい。
(私の在日朝鮮人という表現は国籍にとらわれることなく、日本に在住する朝鮮民族の人という意味で使用している。)
<人権と生活 18号 2004年6月 掲載文より>