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《4・24教育闘争証言集会》

    足 音 を 聞 け !

 

証言者       高 奉 淀 さ ん

          粱 祐 直 さ ん

          鄭 禧 淳 さ ん

コ−ディネ−タ−  仲 尾 宏 さ ん

 

 仲尾:みなさん今晩は。本日は阪神教育闘争50年、その闘いとはどのような背景を持ち、いかに闘われたのかをお三方に証言を頂きながら、民族教育の保障というものをいかに進めていけばよいのか考えてみたいと思います。最初に少し日本における朝鮮人の民族教育の歴史を振り返ってみます。

 いわゆる「日韓併合」「韓日併合」をやった翌年ですが、朝鮮教育令が出された。そして日本語の強制が始まった。つまり朝鮮語教育の弾圧が始まったわけです。それは朝鮮半島だけではございません。台湾・アイヌの人々・あるいは琉球においても同じ事でありました。つまりそういう問題として民族教育を考えなければならない。そしてそれは同時に民族教育の弾圧というのは母語教育、母語というのは我々が産まれて最初に発する言葉、お母さんあるいはお父さんの腕の中で発する言葉、それが母語、mother languageと申しますが、それを禁止するということが民族教育弾圧の根本であります。そういう意味では民族教育というのは母語教育というのが柱にあるということが当然のこととしていえると思います。

 勿論歴史教育も大切であります。祖国の歴史を学ぶことは大切ですが、しかし歴史教育はある意味では相対的でもあります。つまり歴史教育というのは、自分の国家・民族のことを都合よく教えるんじゃなくて、やはり普遍的な価値観である人権、あるいは環境、あるいは反戦平和、そういった普遍的な価値観の中でそれぞれの民族や国家の歴史が試されている。かっての日本の教科書問題や今のいわゆる自由主義史観のような歴史教育は許されないというのはその点からであります。

 そういう意味で歴史教育の問題と同時にこの母語教育の大切さ、それが民族教育の中心であると私は思います。従ってそういう民族的なマイノリティの場合、民族教育はマイノリティを認めないものに対する告発である、そういう言い方もできると思いますし、逆に権力の側からすれば、それは非常に怖い。恐怖心がある。どういう教育であるのかわからん。そういうところから、かの阪神教育闘争というものが起こった、つまり民族学校に対する弾圧が起こったということが言えるかもしれません。

 

 阪神教育闘争についてはいろんな書物が出ておりますので、ご存じの方が多いと思いますけれども、簡単に背景を申します。1947年になってトル−マンドクトリン、トル−マンというのは当時のアメリカ大統領ですが、彼が戦後世界の中で「全体主義の侵略と闘う」という宣言を出した。そして、「日本は反共の砦とならなければならない」、こういう世界戦略を打ち出した。これがきっかけであります。その当時の日本の吉田政権は進んでその「反共の砦になる」ということを受け入れました。

そして当時在日しておられた朝鮮人の方々に対しては、極力帰ってほしい、曰く「追い出し」ということを考えた。また「民族教育というのは共産主義の温床である」ということを吉田総理をはじめ閣僚や役人は言っていた。これは今日の冷戦が終わった世の中から見れば考えられないことですけれども、そういう情勢が基本的に背景にあったということは間違いございません。   

 しかしながら他方では、すぐ帰国されなかった在日の方々が、とりあえずは自分の子供たちに言葉を教えようということで国語講習所などが発足いたしました。一つにはいま申しあげましたけどもすぐには帰国できない事情がいろいろありました。交通通信手段の逼塞、あるいはお金の持ち出し制限、それから祖国の混乱ということもあって帰国を戸惑わせたり、下関や福岡あるいは大阪まで行っても船がないという状況でもう一度引き返したという方が多数おられる。

もう一つはやっぱり戦前から日本におられた方々が、日本の学校へ行っておられる方々、進学率は当時の差別と貧困の中で非常に低かったわけですけれども、やはり戦後になっても、解放後といえども日本の学校へ行くと様々な差別を受ける。そういう中で、「自分達で学校を作ろうじゃないか」と作ったのが国語講習所であり民族学校でありました。     

レジメに数字を揚げておきましたが、1946年の10月で小学校いわゆる初級学校が 525校 4万 2千人、中学校、中級学校が 4校1180人、48年になりますとさらに広がりまして、小学校 566校 5万 3千人、中学校は 7校で3300人、今日の高校に当たります青年学校が33校で1800人、こういうような広がりをみせておりました。

 

 それに対して日本の吉田政権の方は、こういった民族学校に対する恐怖感、それから反共の砦とする戦略からいってこれを弾圧するという方針を固めたのですが、いきなり警察官を派遣する事はできない。そこで1948年 1月24日に文部省の教育局長通達というのが出ました。これは「朝鮮人設立学校の取扱いについて」という名前をつけた通達でありますが、その通達によりますと、朝鮮人の子供は日本の学校へ区別なく就学させる、「区別なく」というのは言葉尻はいいんですけれども、表現はいいんですけれども、要するに朝鮮人としての民族性を認めない、日本の子供と同じ扱いにする、とこういうことであります。

二番目には、朝鮮人学校として残すならば私立学校の認可を申請しろという要求であります。

三番目は、日本の学校の校舎を借用していた民族学校、朝鮮学校、国語講習所がたくさんありました。当時はまだ住宅事情門悪く、それから公共施設もほとんど無い状態でありますので、集住地区ではそれぞれの学校や自治体に交渉して、日本の学校の校舎の一部を借りて民族学校は運営されていた。それを明渡ししろ、と、こういう通達が出たわけです。それで各地で交渉が始まりましたがそれに抵抗する、あるいはそんなことは当然出来ないと抗議する朝鮮人の団体・学校に対する弾圧が始まった。

これが阪神教育闘争の第一次の弾圧であります。ちょうど50年前の今月今夜の前日です。

 

  4月23日、神戸で警官隊による実力行使で日本の学校の校舎を借りていた所が追い出された。そして今日、 4月24日にはそのことに抗議する朝鮮人の団体やたくさんの方々が兵庫県庁に押し掛けて岸田知事と交渉する。深夜までの交渉をやった。そしてその時岸田知事は、その文部省の命令を撤回するということを一旦約束いたしましたが、深夜になりまして、GHQ、アメリカの総指令部の命令によりまして非常事態宣言が出され、その撤回を反古にしてしまった。そしてそのあたり一帯の朝鮮人の方々をいわば無差別に2000人も逮捕するという事態が起こった。それが50年前の今月の今夜の事であります。

 そして大阪では、4月26日になり、同じ問題で府庁に交渉していた在日の方々と、それから府庁前に集会を持っていた多くの在日の方々、日本人の方も少数ですがおりました。そういう人々に対して突然「5分以内に解散しろ」という命令が出され、武装警官が排除にかかる。そして数百人が逮捕される。

その中で金太一君という15歳でしたか16歳の少年がピストルで頭を打ち抜かれて亡くなられるという事態が発生いたしました。この大阪、神戸の二つの事件により起訴された方が 213人、占領下でありますから軍事裁判にかけられた方が約 2/3で、重い刑罰並びに国外追放を受けた方が33人という数字に上っております。学校自体は神戸で 3校、大阪で19校が閉鎖され、そして私立学校の認可を受けたものが27校でありますけれども、それは形だけのものでありました。なぜ形だけのものになったかというと、もう一度、第二次弾圧があります。それは翌年、1949年の 9月です。    

 

 この時に当時の在日の唯一の団体といってもいい多数の朝鮮人が組織されていた朝鮮人連盟と民青、これは今の民青ではございません。それらに団体等規制令、これは破壊活動防止法、破防法の前身の弾圧法規ですが、それを適用して解散の命令が出る。そして幹部の公職追放ということが行われます。とりわけその具体的な中身としては朝鮮学校の閉鎖を全国規模で強行する。今日お越しになってる中で名古屋からの報告をいただく鄭さんのお話というのはこちらの方に関係するかと思いますが、そういった第二次の弾圧が行われます。                               

そして認可は大阪の白頭学園の 3校のみということになってしまった。勿論これに対しては全国各地で粘り強い交渉と闘いが行われまして、幾つかの暫定措置がとられた。特に大阪などの集住地区では、東京もそうでありますが、公立の朝鮮学校、つまり大阪市立、東京都立という形で朝鮮学校を日本の学校の分校として残置するということが暫定的にとられた。それから朝鮮人の集住地区では民族学級を設置する、つまり課外授業として設置するということも暫定的に行われました。       

 この京都でも10数校で民族学級が置かれたんですが、今残っているのは 3校であります。それはその頃、朝鮮人教師の人事をめぐってその体制を保証されないということが、民族学級がうまく残らなかった大きな原因でありますが、また大阪などを中心にしましては70年代から新たな形で民族学級が復活しております。

 そういうわけで、ごくかいつまんでこの阪神教育闘争の背景と日記的な実情を申し上げました。あと、このまとめ、それから先程の国際人権にかかわることにつきましては、お三方のご証言をお聞きした上で私の方からまとめの形で提起したいと思います。今日はお三方の証言をお聞きするというのがメインテ−マでありますので、そのことに十分な時間を取りたいと思います。  

ただいまからお話をお伺いいたしますが、それぞれ約30分お話をいただいて、その後会場の皆さんからの質疑応答を含めて少し時間をとり、あとのまとめと主催者のアピ−ルを含めて 9時までには終わりたいと思いますのでご協力をお願いいたします。

 

 それでは今日来ていただいている方、ここに大きくお名前が出ておりますがご紹介いたします。まずお話をお聞きするのは大阪からお越しいただきました、大阪でのご体験を中心にお話いただく高奉淀さんであります。その次は兵庫のご体験をお話いただく梁祐直さんです。最後は名古屋でまだその頃生徒だったとおっしゃってましたけども、名古屋でのご体験をお話いただく鄭禧淳さんでいらっしゃいます。

 それではコ・ボンジョンさんからお話いただくわけですが、簡単に私から略歴をご紹介させていただきますと、1944年、光州師範学校を卒業され、錦国民学校教諭、国民学校というのは当時日本でも朝鮮でも小学校のことを国民学校と申しておりました。そこの教諭をされ、その後、徴兵の問題がありましてそれを忌避して日本にお越しになった。そして48年の当時は大阪の港朝鮮小学校の教諭でいらっしゃった。当時25歳であったそうです。そしてその闘争の後、大阪朝高の教頭、中大阪・西大阪朝鮮中学校の校長、さらに大阪第三・第四朝鮮小学校の校長をお歴任になったと伺っております。

それではまずコ・ボンジョンさんから当時の情勢の基本的なところと、大阪での具体的なご体験をお聞かせいただきたいと思います。よろしくお願いします。 

  証言・高  ・梁  ・鄭  ・まとめ

 

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