味乃留のホッツキある記(No.3) 

第21話〜第30話    (2002年4月7日〜2002年6月9日)  

ホッツキある記 No.1 ホッツキある記 No.2 ホッツキある記 No.3 ホッツキある記 No.4
No.1
No.2
No.3
No.4
No.5
No.6
No.7
No.8
No.9
 No.10
三つの願い  
のじぎく    
お礼参り    
ワープロ    
かたくり    
ニワゼキショウ
昔の町並み  
午年で     
思い込み   

  阪神大震災   
 
No.11
No.12
No.13
No.14
No.15
No.16
No.17
No.18
No.19
No.20
遊び心
曖昧と追求と
プロとアマ
ボランティア
金バッチ
コンサート
チャリティ
いかなご
さくら
SFもロマンを?
No.21
No.22
No.23
No.24
No.25
No.26
No.27
No.28
No.29
No.30
研修旅行
造幣局通り抜け
窯焚き
夢とロマン
何でも修理屋
ADSLと初心
根無し草?
日々是好日
イッチン
 第二の人生?
No.31
No.32
No.33
No.34
No.35
No.36
No.37
No.38
No.39
No.40
サッカーとは
草刈
宇宙の話
展示会あれこれ
古本
予測
過信で
今頃、やっと?
TVゲーム
洪水の話
No.21

「研修旅行」

2002年
4月7日
(日)曇り
先週は、学園の2泊3日の九州研修旅行だった。 九州には既に3回行って居り、特に行きたい所も無かったし、それに今回のは生真面目な委員の方々が、正面に「研修旅行!」と決め付けた感じで、一寸ペダンチックな感じの行く先なので、大金?の割には旅の魅力が乏しく参加したくなかったが、世間の義理(オーバーな!)で、渋々加わった。

 全員63歳以上の73名の集団なので、どうかな?と思ったら、案の定、早朝のバス出発乗り遅れが発生。 でも現在は、携帯電話で「JR新快速」乗車指示から大阪駅での「タクシー」乗り継ぎ、伊丹空港出発ゲートまで的確な誘導で無事到着。 昔の年寄りだったら? この威力に、この際矢張り「携帯」を持つべきか? メモ・メモしとこ、購入予定のリストが又増えた!? 

 不知火海に面し、長閑で和気藹々とした漁村の網元の娘だった「水俣病」患者の「語り部」。 発生初期に「空気伝染する奇病」とされ、それまでの厚遇された環境から一転、雨戸を閉じてても投石される冷酷な迫害の真只中に投げ込まれ、死の誘惑を父の信念に従って生き抜き、後に仕打ちを謝罪する人々に融和を説いたその生き様。 それぞれの立場で利益を求めて生きるために生じる権謀術策と抑圧される者。 「デマ」に踊らされる人間の、愛憎「紙一重」の業の深さと、人の善意を信じる心の強さ。

 「おどま盆ぎり盆ぎり・・」の辺境の村を訪ね、新調された村役場で、正調「五木の子守唄」を習った。 川辺川ダム建設が進み、移設が始まっていて、高台にある明るい住宅団地には真新しい村の施設や住宅が建ち並んでいた。 谷底の部落に下りると、古びた校舎に寄り添うように満開の桜が咲き、板張りの廊下の隅には防火用バケツに水が張られ、人の居ない教室では、黒板に卒業式の飾り付けが残されていた。 おばあさんの歌う「子守唄」の鄙びた、心に染み透るような調べが、静かな村の路地から聞こえてくるようだった。

 [球磨川下り」は結構長時間で、適当に間を置いて飛び込む水飛沫に、船中の仲間の慌て振りと冷やかしと思いやりが交錯し、予想外に仲間意識が醸成されて楽しい道中となった。 岩肌に激突するようなスリルの点では、京都の「保津川下り」が上だし、絶壁では熊野の「瀞峡下り」だが、「大歩危小歩危」や「長良川」下りに比してどの席でも満遍なく、適度に飛沫を被るスリルがあって中々面白かった。

 初日の宿は、誠にお粗末で不満たらたらだったが、2日目のホテルで、何の気なしに覗いたロビーの陳列棚を見てビックリ仰天! 「浜田庄司」「加守田章二」「藤原雄」「北大路魯山人」「13代中里太郎右衛門」「井上萬ニ」「富本憲吉」「鈴木蔵」等など・・・名立たる巨匠の作品が、所狭しと居並ぶ壮観さ!!!。  ギョッとして周囲を見渡すと、玄関入口の「裸婦」像は、何と仙台に美術館がある、あの「佐藤忠良」作ではないか! 

 エレベーター横の「阿蘇山」の絵は、これも軽井沢に美術館がある、「田崎広助」だぁ! それに、あそこのは、お馴染み「平山郁夫」の「砂漠を行く駱駝」の絵だ! あっちにも別の絵が! それに中世の有田の「金襴手」や「色絵」「染付」の花瓶や大皿が、これでもかとワンサカ!!。 思いがけず貴重な美術品の数々との出会いに、ただただ敬服し感謝・感激。 部屋もお風呂も大満足で、☆☆☆☆☆。 

 最終日、「荒城の月」の「瀧廉太郎」の家と、作曲のイメージ作りとなった「岡城址」を見に竹田市に行った。ありふれて平凡な城址と思っていたが、「岡城」は見るからに攻めあぐねる、正に屹立する崖の上に築かれていた。 本丸跡からの光景は、直下の原生林から遥か彼方の九重連山まで、幾重にも重なる森林の茫々たる大地のうねりの眺めであった。 上下左右を自然に囲まれ、月光に照らされ、中空に浮かび出る様な心地こそ、夭折した作曲家の琴線に触れて、名曲を生じさせたのではなかろうか。 

 心の中を、日々、前後左右に揺さぶられた旅だった。
No.22

「造幣局
 通り抜け」


2002年
4月14日
(日)晴れ
 パソコン通信時代からのメール仲間との「OFF会」が、昨日丁度時期も好いので、造幣局の桜の「通り抜け」をメインに実施された。 現役をリタイヤーして始めたパソコンでの、インターネットへの窓を開いて頂いた若くて優しい先輩達と、途中から加入された「iモード」の専門家など多彩有能な方々である。 名古屋や北陸や琵琶湖東部の方々も居られて、待ち合わせ場所・時刻も不定で大阪に集い、詳細はお互い携帯でのメールや会話で確認しあって落ち合う方式だ。 時代遅れの小生は不携帯で、公衆電話頼りで機動力がない。 さっきのニュースでは、公衆電話の削減が本格的に始まる様だ。 携帯も必須になってきたな(既になってる!そうだ)。

 幸い天候に恵まれたが、予想にたがわず地下鉄天満橋駅から既に大混雑で、旗を先頭に進む団体客も、幾つもの集団が殺到していて、流れのまにまに「造幣局」入口へ。 記念写真を取ってから突入!。 別れ別れになったらと思ったが、「携帯」の威力で我が軍団は、あっしを除いて少しも動じない。 八重桜が殆どで、知らない品種が次々と出てくるし、大体が濃紅色で豊満な花びらを誇っていた。 ただ葉桜となっているものあり、また八重独特の絢爛豪華な花弁が多く、山桜や染井吉野のような清楚・可憐な桜花とは一味もふた味も違う雰囲気である。 写真をとっている内に案の定、あっしだけが孤立してしまった!!。 

 一旦外に出てUターンして、遅れてきた仲間とのドッキングを予定してたので、無事出口で合流し、桜ノ宮公園を大川に沿って戻る。 公園内の通りには数百軒の出店が複線で並び、今まで見たことのある、食べ物・玩具・金魚掬いや射的などの賭け物・土産品に装身具・記念品から占いと、ありとあらゆる種類の出店の賑わいに驚嘆。 若い人は左右を眺めつつ、あれも・これもと嬌声を上げる。 「造幣局の通り抜け」の人気の主因は、この屋台の賑わいに有ると見た! 「花より団子」だ! 

 昼食時でもあり出店で休憩、「たこ焼き」五百円、缶のお茶二百円。 再度「通り抜け」する。 日頃通行が無い場所だから、枝が垂れ落ちていて「潜り抜け」的歩行となる。 今年の桜は「欄欄、らんらん」だそうで、他のに比して白く比較的可憐な印象の花びらだった。 この花の写真だけが、メモリカードにキズが有ったらしく、画像に乱れがありご披露できなかった。 2往復した後、近くの大阪城天守閣に行く。 5年前に一部修復があり、エレベーターが設置され、金のシャチホコと外壁の黒塗りと金箔模様の復元が見事だった。 また展示方式も近代化されていた。 

 あっしの先祖は4百年前、先見性無くと云うか主命に従順だったのか、数百人の部下を率いて侍大将として豊臣方に付き、「夏の陣」の敗戦で、中仙道を通って毛野国から下野の山辺村堀込に落ち延び、爾来先祖代々慎ましく居を構えてきた。 その地一帯は「元屋敷」の地名があるが、明治時代の火事で焼け落ち、残されたのは焼けた刀や槍の穂先などと古銭の類だけになった。 未だにナカムラ一族専用の墓地があり、道路拡幅前までは、共に落ち延びた主な家来共々の墓石群があった。 また450年に及ぶ先祖代々の過去帳が菩提寺に残されていて、墓碑に刻んで居られる家もあるが、あっしは分家筋であり未だ見てない。 いずれ折があったら、先祖の地の調査でも始めようかと思っている。 従って大阪城は、他人事ではないような感じの場所である。  

 夕方になったので、JR大阪城公園駅から梅田に行くことにして移動し始めたら、大阪城ホール一帯が大混雑していて、若者がワンサカと屯している雑踏の中を突っ切る。 「モーニング娘」の3回公演だそうだ。 駅もその性で超満員でみんな右往左往。 桜ノ宮駅で桜見物帰りの人身事故で外回り環状線がストップし、切符買うのに大混雑。 あっしが聞き間違いしたりして結局30分ほどロス。 疲れ果てて大阪駅2Fの居酒屋で、簡素な夕食兼飲み会。 用事で先に帰ったメンバーとの「写メール」での、映像と会話のやり取りが延々と続いて盛り上がる。 携帯でも17万色の画像は、流石に綺麗に出る。 少し前までは音声だけだったので、聞き取り難いし個々の対話だったが、メールの併用で、洒落たセンテンスで笑いがとれるし、画像付きで持ち回りで披露され、情報処理が格段のレベルアップだ。 先端技術の有用性を実感した一日だった。  
No.23

「窯焚き」

2002年
4月21日
(日)雨 
 日記を整理していて読み返してみると、陶芸をしてる癖にあんまりその関係の話が載ってない。 折りよく一昨日「還元焼成」してたので、「窯焚き」に絡んで駄弁を弄したい。 一番素朴な「野焼き」や本格的な「登り窯」については、知識としては知っているが、体験したことが無いので除外させて貰って、ちょっぴり体験してる[薪窯」と「灯油窯」と[電気炉」のあれこれ無駄話を一席弁じましょう。、
 
 今まで、窯業の産地に行き「窯場」を見学したのは、北から「益子」「笠間」「九谷」「美濃」「瀬戸」「信楽」「京都」「丹波」「備前」「萩」などだったが、殆どが「薪窯」で、昔ながらの「登り窯」もあるが、中には工場でのコンピュータ制御の「トンネルコンベヤー」型大量生産方式のもあった。 日本で一番窯場が多いのは「益子」で、大方420の窯元が存在すると言う。 古くからある薪窯は別として、オイルショック前は灯油窯が一般的だったのだが、あの時狂乱物価で長い間灯油が手に入らず、それに懲りて「プロパンガス窯」に転換した人が多かったそうだ。 吉川さんは「薪・ガス・電気」と3種類持っていて、作陶に応じて使い分けて居られる。 松崎健さんの薪窯は独特の灰被り窯で、吉川さん共々「つくる陶磁郎BOOKS」の「窯の焚き方つくり方」に掲載された。

 陶芸の本を読むと、窯焚きの時に炎の色で温度が判る、と書いてある。 これは昔、製鉄高炉のベテラン技師が、覗き窓から溶けた鉄の色を見て、ピタリと温度を当てる神業をもっていると、いう話があったが、それと一緒ではないかと思った。 ところが「吉川水城」宅の薪窯で(お邪魔虫での)見習中、数回薪窯焚きの手伝いをしたが、その際に温度計と覗き穴からゼーゲルと陶器の様子を、観察したことがあった。 

 窯の中の陶器の色が赤みを帯び、更に赤色になり、内部も明るくなり、千ニ百度を越すと幾分黄色味を帯びて来る。 その辺の10度毎の上昇と色の変化が、赤みから黄味を帯び、更に温度が上がると白熱化になって来るのが、如実に判る。 意外に読み取れるので,慣れたら当たり前と思って拍子抜けしたが、昔は感度の良い温度センサーが無かっので習得が難しかったのかな?

 攻めの段階になると、5分置きに松の薪を2本づつ焚き口に投げ入れるが、正面に立つと猛烈な輻射熱で熱いし痛い。 昔の蒸気機関車の石炭焚きと同様、あちこち均等に投げ入れるには、身体を斜めにして熱を避けながら、狭い炉口を通して手首を捻って放り込む。 人により癖があるからと、前後の焚き口を交代して平準化する。 時々ドラフトの具合と煙の色を見に外に出るが、風が特に強い日は煙突から吸い出されるので、還元が掛かり難くて、あれこれ操作が大変。 この辺は灯油窯でも一緒だ。

 学園では以前は灯油窯があったが、移転後は全て電気炉となった。 還元も可能なのだが、稼働時間に制約があり、長時間の焼成は出来ないので、冷却還元などは出来ず、結晶釉などの使用も不可だ。 しかし、作陶の傾向が講師の指導もあって、造形と装飾技法をメインとしているので、上絵を含め電気炉でも面白い作品が輩出している。 半自動制御なので、充填した作品の質量と状況に応じて、多少条件を変化させて結果をみているが、窯出しした作品の上がりが良いと、一人悦に入ることがある。

 クラブ部員が百人近く居ると、色々思いがけないトラブルが起きる。 壺の中にビニール紐の入れ忘れがあり、蓋を少し開けている「あぶり」段階で、黒煙が噴出し大騒ぎになったり、生の粘土を支えに使った人が居て、水蒸気爆発で窯内部で粉々に飛び散ったり、釉を厚掛けして棚板と融着したり、釉の拭き取り忘れで蓋が融着した急須や土瓶があり、空気を巻き込んだまま成形した為、高温膨張で破裂したり、と冷や冷やモノで、ついつい注意喚起の声がデカくなる。 続きは又いずれ、忘れたころに。
No.24

「夢とロマン」

2002年
4月28日
(日)曇り後晴れ
 木曜日。 午前中、学園の入学式の準備作業を終えてから、学園のHPに明石市の「高齢者学習の展望」を載せるべく、夕方まで掛かって原稿入力し、自宅に帰ると、机の上に元の勤め先からの連絡として、メモで訃報が置かれていた。 栃木県益子町の「久保 通」さんの突然の逝去だった。 慌てて吉川宅に電話を入れると、今月始めより急に痩せ皆が心配していたが、折からの町長選挙の責任者でもある当人は、何時もの誠実さで休むわけにいかないと頑張り、圧勝を勝ち取った前後から不調となり入院。 数週間の治療も既に手遅れで、残念ながらあっという間に「57年間の人生」を走り去った、との事であった。 故人は重要な取引先の社長として、地元益子の有力者として、又、私事ながら第2の人生の柱となった陶芸への、門を開けてくれた恩人でもあった。
 
 翌日午前中は学園の入学式・始業式でもあり、夕方からは陶芸講師の個展が心斎橋であるので、昼過ぎに中之島のホテルで開催中の、会社OBの写真展が最終日でもあり、そこに立ち寄ってから個展に出ようと、フルに予定を組んでいた。 が、急遽、何としてでも葬儀に参列したく、お通夜は無理としても告別式にはと、インターネットで検索を始めた。 金曜日でゴールデンウイークの前日でもあり、困難さは予想されたが、とりあえず「大阪発宇都宮行きの夜行バス」なら、全て予定条件を満たせるのでチエックした結果、増発便が若干の空席ありと表示されてた。 予約は朝9時からなので、金曜日学園登校前に予約でOKと一安心。

 で、朝9時ジャストに、学園近くの公衆電話より予約を入れると、増発便は女性客の団体さんなので、男性は不可との事。 話が違うぜ!と怒ったものの駄目なものは駄目で、式も始まるし手の打ちようがない。 後片付けも終わってから、仲間に個展他への同行をキャンセルし急遽帰宅。 とりあえず新幹線で行く事にし、現地での宿泊を確認し始めたら、ペンション・民宿まで全て満杯。 何でェ!と調べたら、翌日からは「益子春の大陶器市」!。 宇都宮に泊まっても翌朝のバスは超満員の筈、次善の策として「真岡」のビジネスホテルを予約。 「小山」まで新幹線で、後は水戸線で「下館」に、そこで真岡鉄道に乗換て真岡に行く旅程とした。
 
 急いで明石駅に行き、往復キップと自由席を購入、新大阪で真ん中の席に座われてやれやれと落ち着いたら、京都で窓際が空き助かった。 後も何とか座れて10時前にはホテルに。 翌朝は8時半の1両のみの電車が満員で、これも陶器市かと思ったら、何と「茂木」での「F1レース」見物客だった。 益子城内坂は早朝より人の群れで一杯、近辺の駐車場はもう満車の表示も出ていた。 「吉川水城」宅にお邪魔して、故人の詳報をお伺いし、早世を悼み人徳の素晴らしさを痛感する。 昨秋に深夜まで故人と二人だけで「町づくり」について論議したが、批判的な立場を崩さなかったことが、今となっては悔やまれる。 

 喪服に着替え、ご夫妻とご一緒に式場へ。 街の賑やかさと切り離された静けさが漂う。 顔見知りの長男で未だ30前の喪主は、中小企業なれど社長としての責務を、いきなり双肩に担う立場になり、悲しみと重圧で強張った顔付きだった。 云うに忍びないが「耐えて頑張ってくれ」と余計な一言を伝える。 弔辞が始まると雰囲気が一変した。 次々と述べる弔辞は肩書きこそ町長・商工会長・ロータリークラブ会長などながら、中味は40年50年付き合った仲間達の、心からの純朴な熱い思いの吐露だった。 「人生は夢とロマン」と口癖のように唱えながら、次々と新風を巻き起こし、若者の心を燃え上がらせ、街の活性化を突き進めて来た「通さん」は、そのニコニコ顔で、人々を何時の間にか、自分のペースに引きずり込んでしまっていた。 だが、反面では、自分の事はほったらかしてきた。 それが・・・・  

 小生も10年前赴任した子会社で、協力会社として対面した「久保」さんから、いきなり「仕事もロマンです」と云われ、面食らった記憶がある。 経営者としての久保さんはお世辞にも優秀なビジネスマンとは云えない。 時間は守らない、連絡できないという初歩から失点で、実務の的確な把握も出来てないが、企業体としての新たな物への挑戦と頑張りは抜群で、突発的な事への対応は優れていた。 初歩的な不手際の理由は、地元名士として各種の会合や学校の野球部後援会や、町おこしへの対応で侭ならぬ事が判ったが、後に革命的な「全くお金を使わない町長選」で、その底力を存分に発揮した。 儲けることが出来ない「久保 通」を熟知している町民は、「夢とロマン」が、本物であることを見抜き、それを信頼したのだった。

 故人の好きな歌だった[白い花が咲く頃」が流され、棺の傍に、この時期には散って仕舞った筈の「満開の桜」が咲いていた。 「桜の下で死にたい」と呟いてた故人の思いを、悪童仲間が捜し求めて取り寄せたのを「弔辞」で知り、その一片を棺に手向けることが出来、浜田庄司を受け入れ、若き作陶家を育て、[久保 通」を生かし[仲間」を広げた、益子の風土の潤沢な温かさを再確認して、熱き想いが漲った。  
No.25

「何でも修理屋」

2002年
5月5日
(日)晴れ 
 世の中、高速道路の渋滞がトップニュースになっているというのに、我が家は至って平々凡々な生活振りである。 ゴールデンウイーク開始時に急用で、東海道をオーバーランして往復したので、この時期ゆったりして、溜まった用事を片付けるのに丁度いい日々である。 小生の今日の仕事は、風呂掃除の後にホットカーペットの洗濯となってる。 もう暖房の時期はとっくに過ぎているが、絨毯の上に寝っ転がって新聞読んだり、TVのニュースを見るのは気楽なスタイル?なので、ついつい愛用していたが、流石に暖かくなってきたので、重い腰を上げた。 

 先ず、掃除機でゴミを取ってからと思ったら、掃除機が修理中と家内が言う。 そう云えば昨夕、扁壺の貼り合わせの準備をしたので、土埃りの掃除を入念にすべく、掃除機の先を床に強く押し付けていたら、ポキッと折れて仕舞った。 さぁ、大変! 見ると管の接続部分が割れていた。 よく観察すると、どう見ても薄っぺらで脆弱な構造になってる? これじゃぁ、いわば欠陥商品だ!。 と、云ってもクレームに出せば時間が掛かるし、その間掃除が大変だ。 家内に知られぬよう、密かに接着剤の保管箱を出して中身をチエック! 硬質プラスチック用が見つかったので、早速接着したのだった。 固定してた紐を解くと完全に固化してて使用OK!

 「何でも修理屋」が「アッシー君」と並んで、我が家に安穏と居住しうる重要なポイントなので、当然の事ながら各種簡易修理部材は取り揃えてある。 DIY店で仕入れた色んな大工道具やハンダ付け用品から電気部品も含めあれこれ。 軟質塩ビ・琺瑯・ポリエチ・陶器用など、9種類の接着剤やら水道部品も。 傘の修理や配管洗浄用具もあるが、余り使ってない。 出来栄えは我ながら、どう見ても素人レベルで?。 ただ、何であれ何とか直すのが得意?。 所が隣家のご主人は、電動工具を使用しての本格的な日曜大工さんで、過日拝見したら箪笥から本箱や食卓・椅子・テーブルなど、あらゆる家具が専門家並の手づくりであった!。 家内には「道具が違う」と云ってある。

 そうだ、洗面所の琺瑯の傷跡も修理しないと。 あれは、見栄えが大事なので、地の色と上手く合わせるのが難しい。 家のは黄土色なので、補修剤に絵の具を少し混ぜてやるが、液体の時は白っぽく見えて、乾燥すると濃色に出るので、その加減が難しい。 その点は陶芸と少し似ている。 釉薬の色と発色は全く違うし、絵の具も練り込み顔料も、粘土の時と素焼時と本焼時で色が違ってくる。 絵画の絵の具は其の侭の色彩だから、先読みが無いだけ気が楽だ(しょうもない話で!)。

 そうそう、本題のカーペットの話だが、3畳大の大きさなので、予め浴槽に水を張り洗剤を溶かした中に畳んだ形で浸す。 その上にバケツや洗面器に水を入れたのを重石として載せ、30分程沈めて置く。 その後、引っ張ったり押したりして汚れを洗い出すが、水を吸った重さは格別でかなりの力を要する。 数回水洗いしたのち、丸めた蓋に載せ水切りして夕方まで放置。 後でベランダに干し、風に飛ばされないよう固定する。 ついでに、洗面所の温水の蛇口が緩んでいるのを修理。 温水は止まるのだが、栓が空回りする。 パッキンが磨耗しているのかと思って、玄関脇の止水栓を閉塞し、部品類を取り揃えて取替えに掛かる。 蛇口を分解すると、中栓もパッキングその他も問題ないようだ。 

 あれっと思って、何でも無い蛇口と比較する。 よくよく調べると、ネジに付いてる筈の分厚い座金が無い。 その性で穴の深さが違って、ネジが下につかえて締まらないのだ。 多分,この間の湯沸器修理の時に業者が栓を分解したので、その際うっかり落としたものだろう。 釘やらビス・ナット類の格納袋を開け探すと、似たような座金が幾つか出てきた。 厚みと穴の径を調べ、コレコレ、と選んだのを取り付けるとバッチリ。 終わったら昼前になったので、TVの前に座ったら腰が痛い! 中途半端な格好でのカーペットの押し洗いの性か? 全くもって年だなあ!。  
No.26


「ADSLと初心」

2002年
5月12日
(日)曇り後晴れ 
 今週はちょっとした二つの出来事があった。 一つは、秋の展示会に向けての作陶で、扁壺の組み立てが一段落したことである。 大方1ヶ月掛かって3月中旬にやっと構想が纏まり、それから図面・デザインの決定、型紙の裁断・材料探し・補助器具の作成を経て、4月上旬から粘土の調合と各種練込土の調整、張合わせ等々の作業をして、やっと扁壺の形が出来上がった。 これから課題の象嵌を施して乾燥・素焼・本焼きとなるが、何とか完成するのは7月下旬か。

 もう一つは、「フレッツADSL」に転換したことである。 この1月に「ISDN」から変えようとしたが、基地局との距離が長いから無理と言われ、渋々「フレッツ接続」にして長時間で対応していたが、あちこちHPを見て歩くと、知り合いのHPも含め、写真が圧縮で数十枚もあるページが多くなり、動画のケースも結構増えて来たので、ISDNのスピードでは対応が難しくなって来た。 現状より少し早くなるならそれでもマシと、再トライする。

 N○○に相談すると、距離が3キロならいけるが、4.2キロでは「1.5M」でも駄目と言われたが、「現在のISDNより数倍でも早くなればいいから」と、主張すると「5キロなら全く駄目だが、4キロならISDNよりはマシです」との答え。 よし、それならと早速申し込み。 接続コードとケーブルの問題でN○○の技術に電話すると、「その距離では1・5Mでも無理、ADSLは駄目です]との答え。 ついでに、電話差込口とパソコンまで15mあると言うと、「パソコンを電話の傍に移動しないと、減衰して使えません」と云う。 出来ればしてるぜ!と思いつつ、営業マンは「何とかなる」だったが、技術屋さんは「頑として」駄目!

 再度「営業」に電話すると、「ISDNより下回るという話は聞いたことがありません」ときっぱり。 アンタは偉い! 但し、元に戻すことを考慮して、購入予定のモデムはレンタルに変更。 この辺が年の功。 「モデム」も「CD・取説」も送って来たので、見たらパソコンとの接続が「USB」でなくて[10BASE−T」。 そんなの知らんなぁ? 慌ててPCの図面を見ると「Ethernetコネクター」がある。 取説の中にそんな言葉があったの思い出し、念のためPCに[ドライバー]があるか調べる。 それらしきものが幾つかあるので、N○○に確認するとOK。 

 量販店で「UTPケーブル」を購入し、BIGLOBEのHPで「ADSLツール設定方法」をプリントアウト。 5年前にWINDOWSに取組んで以来、今まで本・取説の類で対応して何とかなってきたので、これで工事当日まで問題なしと踏み、一休み。 当日連絡を受けて作業を始め、狭い場所で手探りで10BASEボートを探ると差込が合わない! 他を当たるが駄目。 モデムをUSBに交換しなければ! 心臓が凍る。 PC取説を見直して勘違いに気付く、使用中のUSBの後ろに隠れてた! 事前に現物を見てなかった。  反省。

 無事、モデムが立ち上がり「CD」で「フレッツ接続」に入り、「新しい接続プロファイル」作成も終わり、やれやれと思って、インターネットに進もうとすると、駄目。 慌ててガイダンスを見ると、肝心の「インターネット」と「メール」の設定方法がプリンアウトしてない! 手抜かりもいいところ! FAXで送って貰おうと電話すれど話中、待っても・・・何回しても駄目、留守電もなし。 昼休みも午後になっても通じない! 

 「初心忘するべからず」 学生の時に言われ、新人教育のときに言い続けたのに、なんてこった! パソコンではまだ初心クラスなのに、無様なことで! 岩波文庫「風姿花伝」の原文では「ただ、返す返す、初心を忘るべからず」 全くその通り! 「初心」とは7歳ごろから能を習いて24・5歳になり、芸能が一応身に付いた頃のことをいうらしい。 そうすると、あっしは未だ「初心」者にもなってない! そうゆうことか。 諦めて、もう一度取説を読み返す。 

 後ろのQ&Aを読むと、何箇所か関連しそうなことが書いてある。 よく判らないが弄ってみることに。  「NICにTCP/IPがバインドしてるか」やってみるとOKだ。 ダイヤルアップネットワークは使用しないだと! そうか、今までの接続を削除してみる。 序で「イーサネット」のドライバーの所をクリックして、IEを使うと何か手ごたえ。 調子に乗ってあれこれするとおかしくなった。 思いだしながら幾つか戻すと、接続ダイアローグがでる。 やったぁ!、念を押す。 変な表示がでるが、再クリックするとOK! やれやれ、目出度し、めでたし。

 使ってみると、矢張り速度が不安定。 早い時は快調で多分1M位あるが、時々急に酷く遅くなる。 ISDNの下りは128〜64kbpsの幅があるが、下限に近くて暫く動かなくなる。 但し、平均すると矢張り数倍は早くなっている。 初期の目論見は、ほぼ満足出来たが、油断で設定にバタバタしたのが悔いが残る。 
No.27


「根無し草?」

2002年
5月19日
(日)曇り後晴れ 
 引退で5年前の11月末から、明石にフルタイム居住するようになっても、年明けまでいろいろ身辺整理が続き、やっとパソコンやらハイキングなどへの取組みを始めて、新しい生活のリズムを刻み始めたのは、1月を半ば過ぎた頃だった。 パソコンが少し判り掛けた頃、神戸ハーバーランドのN○K文化センターで、陶芸コース若干名募集の案内を見つけ、2月末の申込日の早朝、暗い中を整理券を貰いに出かけ、何とか入れて張り切って4月から毎週通い始めた。 

 それからも、陶芸道具やらハイキング用品やら、何やかやと元町や三宮まで出ていて、明石市内に用事があるのは図書館と本屋がメインで、{後は電器・DIYなどアッシー君兼務での大型店舗と、孫の相手の回転すしとTVゲームショップ}だった。 尤も、時々市役所での手続きや病院や通過点としての駅構内があるが、生活臭は無い。 そうそう、思い出したが、会社で加入していた全国ネットのスポーツ施設の、プールが市内にあったので、休日にはそれを利用していたな。
  *アップロード後、念のため確認したら、{カッコ}内は全て神戸市内の店だったので、訂正します。

 神戸市兵庫区から転入して以来、通算して三十数年も明石市に居住しているが、元々大阪への通勤だったし、また半分位は数回の転勤で不在だったこともあって、市民税は払っていたが帰って寝る場所という感覚で、同じマンションの居住者とは顔なじみになっても、その方たちも大方が阪神地区への通勤であり、地元との知り合いはゼロに近かかったので、明石市民という実感は全く薄かった。

 明舞団地居住の時は、バス道路の向こう側は神戸市で、神戸市営のバスにも乗っての通勤だったし、今の所も、3分も走るともう神戸市で、何処からなのか全く区別出来ないし、標識も見当たらない。 地図を見ても、神戸市との境は複雑に入り組んでいるようだ。 明石市の境界線は、南は瀬戸内海だし、東と北は神戸市で西だけが別の町、陸地の4分の3は神戸市に囲まれている。  

 明石市民という感覚を、否応無しに詰め込まれ始めたのは、高齢者大學に入学してからで、西江井ヶ島に通い始めて、周りにいる人たちの大半が、子供の時から明石市内で生活している事に気が付いた。 ショックを受けたのは、会話が成立しないことだった。 何かの話題で「ある場所」の話が出ると、色々補足が出て、あっという間に話が纏まるが、小生には皆目、場所の見当が付かないし、交通手段・所要時間も五里霧中の侭で、暫し沈黙。 質問しても色々名前を上げて呉れる「ビル」も「商店」も、「町名」も「○○通りもチンプンカンプン。 毎度毎度なので、その内に相手も呆れる始末。 まるで異邦人の立場だった。 

 日常読む新聞も、経済紙主体が全国紙に変わったが、最近では地方紙を読む機会が増えた。 学園での行事やボランティア活動の記事を、取り上げてくれるのは矢張り地元の神○新聞で、予告から写真入りでの宣伝まで、行き届いた紹介をしてくれる。 色々企画し推進した関係者としては、無関心では居られない。 読んでみると、結構明石のニュ-スがでている。 朝学園でご同輩が、○○の記事が出ているとか話し合ってる光景が多々ある。 知人や子供の記事や入賞・勝敗・異動等の情報源として、必需品かもしれない。 

 市の動きなどトンと関心が無かったが、学園の展示会などで、地元の有力者も学生に居られるのか、市会議員さんが来られることがあるし、学園の運営に関し議会で質問を出される議員さんもいて、段々無関心では居られなくなり、市に関する情報も幅広く入るようになってきた。 何やかやと、地元とのしがらみが増えてきて、これも長年、根無し草のように住んでいただけから、ちょっぴり根を生やし、やっと市民権を得つつある段階に来たのかな。 

 関東に育ち、子供の頃からアンチ巨人で、創立時から応援してきた[国鉄スワローズ」も、代替わりしてきたし、最近は年中TVで見られる[阪神タイガース」に衣替えしようと思う、今日この頃である。 
No.28


「日々是好日」

2002年
5月26日
(日)快晴 
 (月曜日) 学園のクラブ活動日。 9時前に着き、窯場で焼成待ちの状況を見る。 素焼は午後に窯出しするが、酸化焼成を来週早々にもする必要がありそう。 今度はOB・Aの順番なので早速手配を。 9時半からの朝礼で焼成キップの正確な記入を再徹底。 引き続き、学園の光ファイバー転換に伴う電話回線節減で、ネット接続トラブルが発生した件で、立ち会う。 1時間ほど専門家が調査したが、結局不明。 学園HPを市運営サーバーへの転換を急ぐ必要あり、プッシュする。 昼休みの陶芸クラブ役員会議で昨年度焼成実績の報告を行なう。 

 (火曜日) 午前中は陶芸補習だが、2本の義歯を装着する日なので欠席し、歯科にて一連の手当てを終わる。 今年も例年通り、歯の治療で医療費控除申請だ! 日頃の手入れのずぼらさが原因。 懐には痛手だが、治すと料理の味が際立って来るので。 取れ立てのタコを歯切れ良く噛み切れるのが、ことさら嬉しい。 午後はアッシー君の後で「練込象嵌扁壺」の象嵌作業を。 風の流れの線が命なのだが、上手く出来ないので苦労。 彫った線に5色の色粘土を埋め込み、なんとか終了。

 (水曜日) 終日、「扁壺」と向き合う。 今日は後ろの面の線文象嵌をする。 含有率が高めの色粘土で色彩鮮やかなデザインとしたので、交差する位置を間違えないよう注意をしながら掘り進み、色粘土を埋め込む作業を繰り返す。 序で、全体の姿を確認し、削りと修正を行なう。 細かい仕事で疲れた。

 (木曜日) 午前中は昨日の象嵌の粘土削りと、不良個所の手直しを実施。 午後はアッシー君の後、授業の「イッチン」で花瓶を作るべく、使用粘土を調合する。 「信楽特濾土」と5色の練込粘土と数種類の色化粧土を準備し、一部のタタラを成形する。 夜は恒例の継続中のTVゲームとPCとテレビ。 番組の内容であちこち移動する。 就寝前の読書は今夜から「ミトコンドリアの謎」河野重行著、講談社新書。 中々面白そうだが11時にダウン。  
 
 (金曜日) 終日学園。 9時前から校庭の草抜作業とゴミ掃除。 午前中は神○新聞論説委員長の「政治問題」、話題の国会審議状況の話。 午後は作陶ながら、焼成室の整理と仲間の大皿作りの手伝いで終わる。 自分のものは自宅で手間隙掛けて作るしかない。 掃除当番後、学生自治会七役会議。 総会準備と校内新聞の取材を受ける。

 (土曜日) 8時に小学生の孫を迎えに西神へ。 午前中は扁壺の内部を仕上げし、外側下部の象嵌追加をし、孫と少し遊ぶ。 午後は扁壺全体をチエックの上、細部の微調整を施し原型の完成とした。 作陶のイメージが固まってから、2ヶ月半で何とか現実の形として仕上がった。 後は乾燥させて素焼、釉掛けして酸化焼成で作品となる。  割れたりヒビが入らず、模様が綺麗に浮かび出れば良いのだが? 

 (日曜日) 3度目の淡路島でのハイキングに参加。 8時過ぎにバスで明石駅に、駅でスポーツ新聞を買い港に。 水中翼船で15分の船旅、明石海峡大橋の下を潜って岩屋港に。 町を通り抜け茶間川に沿って山道を登り、標高2百米前後の高原地帯を歩く。 幸いトップグループに入れたので、歩くテンポが早くてFMを聞きながら快適に進む。 心肺機能も足も大分マシになったのを実感。 県立淡路公園内を大回りして展望広場にて昼食。 阪神の勝利の記事を読みながら休憩し、早めに帰途へ。 2時には帰宅できたので、久し振りにTVで男女のゴルフ決勝と国際サッカー試合と阪神の試合を見る。 夕方、この日記を書き始める。    
No.29


「イッチン」

2002年
6月2日
(日)曇り後晴
 陶芸学科4年の1学期は「イッチン」技法の習得である。 今時、何で「イッチン」で4回も授業を潰すの? と疑問が湧くカリキュラムだが、兎に角、否応無しに始まった。 「イッチン」とは器の表面に濃い化粧土を搾り出して線条に盛り上げた装飾で、イギリスの「スリップウェア」と同類の技法であり、ケーキの世界では、「お誕生日おめでとう」など、ケーキの上に白いクリームを押し出しながら、字を描く例の技法である。 クリームは柔らかいので案外簡単に書けるが、それでも綺麗に、となるとコツがいるようだ。

 民芸創始者の一人「濱田庄司」さんが26歳の時、バーナード・リーチに誘われ、イギリスに行き大英博物館で18世紀の「スリップウエア」を見て感動し、それが作陶の重要な技術的精神的なベースになった(濱田庄司 人と作品展 記念図録より抜粋)と言う、凄いエピソードがある。 とは云うものの、古くからある技法だし、あんまり名品はなくお皿がメインだが、表現力が乏しい割りに飾皿にするには熟練を要し、当然表面に凹凸模様が出来るので、食器としては使い勝手が悪いので、皆んな気が進まない。 

 初日はそれでも、土台となる皿作りなので、これはもくもくと。 一部は図案で、ああだこうだで喧喧諤諤。 専用道具として握り部分が大きな、分厚いゴムのスポイトがあるのだが、握力が余程強くないと上手く先から化粧土が出て来ない。 力を入れてやっても、一様に出てくればそれなりに模様も描けるのだが、圧力変動で太く細く波打つようにのたくって流れ出る。 ゴム袋にドロッとした化粧土を入れるときに、空気が混じって入ってしまうと、いきなりプスッと空気が抜けて飛び散り、途切れる。

 男でも手が痛いと云うほど、ゴムを搾るのに力が要るが、描けるのはほんのちょっぴりで、それも正にミミズののたくった後のような有様。 ご婦人方は全く手におえない。 中には抜け目がない人が居て、家からプラスチック容器や油さしや醤油入れ容器などなどを持参。てんでに出口のチューブを切っては出具合をテスト。 握力と容量との兼ね合いで、一番評判が良かったのは、買った「餃子」に付いてたプラスチックの小さな「たれ入れ」。 何処で売ってるのか尋ねる人も居て? 2日目は以上のような有様で、皆、握力がなくなったとか、手が脹れたとか、腱鞘炎の前兆。 

 3日目は、あっしを除いて、それぞれ探し求めた色々なタイプの容器が氾濫。 「マヨネーズ」は、握る所が大きくて一見使い易そうだが、化粧土を入れてを使ってみると、幾ら力を入れても出ない。 大きくて力が分散するのか、出口をかなり太くしないと駄目だった。 濃いと出ないものだから、ついつい化粧土を薄くしすぎて、しゃぶしゃぶとなり、線と成らずに流れて仕舞う始末。 1時間もすると、あちこちから手が痛いとか、上手く出来ないとかで、グチと不満の不規則発言乱発。 それでも真面目な人が多く、何とか仕上げる作品が出始める。

 奸智に長けたあっしは如何していたかというと、何もしてなかった(学園では)。 専ら困っている同級生の手助け。 これが難しいのは承知しているし、出展出来るような代物は絶望的だし家でも使えない、チャリティでの売り物にもならない。 となると、この技法をほんの一部使うことで装飾効果を高める代物を、作り出すことを懸命?に考えていた。 3日目には作陶計画書を提出し、家で作ったタタラの一部をデジカメで撮り、証拠写真として講師に見せ、何もしてない事は無いとのお墨付きを得た(何に成る?)。 

 4日目は自主学習で、何とか誤魔化したが、いよいよ家での作業が追われる事態となり始めた。 世の中思うようには行かないもので、一部秘密兵器を使って「イッチン」を始めたが、上手くいかない。 この道具には化粧土ガ薄すぎた? 力がいらないので濃くないと出過ぎてコントロールが難しい。 初日は後の修正作業が厳しい出来となっちまって失敗、目算が狂ってきた。 来週には出来上がりを見せないと! 緊急事態の再来だぁ! まるで夏休みの宿題と同じ結末だな、幾つになっても。      
o.30


「第ニの人生?」

2002年
6月9日
(日)快晴 
 現在、高齢者大學に通いだして4年目であり、最終学年でもある。 今の所、クラブが社会活動にしっかり取り組んでいるので、卒業後もクラブで毎週作陶ができる筈であり、ラッキーな人生を送っていると感謝している。 定年時子会社出向中で、其の侭3年働いて引退したが、その当時は第二の人生を歩むのなら、通常の大學の聴講生になるとか、しっかりしたカルチャーセンターで、趣味を学ぶ方が一般的だったと思う 。 

 それでNH○文化センタ―で2年程陶芸を習っていたが、高齢者大學の話を聞き、釉薬の種類が多いとか還元焼成が出来るとか、電動ロクロが使えるのが魅力的、と言う理由で早速応募した。 県立の方は抽選倍率3倍で落ちたが、市立の方は偶々1年後に、学園が明石の西端から東の端に移転する計画で、従来応募していた西部地区の人々が、通学が大変になるので希望者が少なく、東部の人は余り知らなかったらしく、幸い無抽選で入れた。 

 入ってみると、教養講座は色々あって、中にはかなり高いレべルもあるが、おざなりのものがあったりで、興味は専ら陶芸で、基礎から色々な技法をカリキュラムを通じて勉強できた。 石油窯焚きでの還元も経験したが、釉薬も色々有る割には発色が非常に悪かったし、装飾技法も乏しかった。 その時点では70歳を越えた学生も多く、現役を引退して老後を趣味で楽しむことに集中しようとする方が一般的だったので、ありふれた身近な作品が多かった。 

 6・7年程前までは、社会全体にバブルの名残もあり、60歳で完全引退ではなく多少は残れたし、抽選で落ちたりして、定年即入学とはならず、60台半ば以上が普通だった。 従い、高齢者大學と言う場所で、勉学に通うゆとりと意欲と体力がある人たちが、今までの現役時代の事は忘れて、第2の人生を送る場として、新たな気持ちで集まったのだった。 だから、教養と趣味の話がメインで、それにボランティアなどの新たな動きも加え、充実した日々を過ごしていた。

 従い、自治会もクラブも、現役時代のようには厳密な規程を設けたりせず、いわゆる大人の知恵として、緩やかな運用で展開して来たが、最近空気が急激に変化してきた。 2年前にサラリーマンが圧倒的に多い地区に移転したこともあるが、デフレ不況の永続もあって、社会全般に雇用事情の悪化での、定年後の雇用延長廃止もあるのか、60前半での入学が増加したような気もする。 また毎年教養講座も近代化され、専門講座も質の向上で技法も多彩になり、さらに社会活動をすることが入学の前提となったこともあって、いわゆるお年寄りには難しい環境となったのかもしれない。

 もう一つは、肉体的・精神的な若さの延長である。 二十年前はまだ一部企業が60歳定年になった位で、それ以前は55歳を過ぎると、もう余り無理は出来ないという認識でもあったが、今や60位ではまだまだ働き盛りという雰囲気の人が多い。 おまけにITで鍛えられているから、頭脳の方もバッチリである。 いずれにせよ、或いは複合されての結果かもしれないが、現役時代は忘れて「第ニの人生」で伸び伸びと、という暗黙の雰囲気があったのが、現役時代の余韻が其の侭、高齢者大學に持ち込まれる時代が来たようである。  

 と、云う話はなんなのかと思われるだろう。 1つはクラブでの話で、いわゆる「マニュアル」が整備されてないと言う苦情であり、また、自治会役員会での「規約」が整備されてないという厳しい指摘であった。 クラブと言う同好の士の集まりなので、好きな道のことなら、自分で納得するまで本を調べるなり、講師に尋ねるなりしたら良いと思っていたが、解説書なりマニュアルを整備したりして置くことが当然で、それが無いのは無責任だ!とは正に恐れ入った。 

 規約の方では、総会の成立要件が無いのは不法で、さらに議事録署名人の規程が無いとの仰せ。 数年前までは、わざわざ総会で出てくる学生など、半数以下が当たり前の高齢者大學だったので、先輩が不成立を防ぐために苦労された理由であるが、いまや全員出席が要請される時代で、ゆくゆく労組の大会並の厳密さとなるのであろうか? 「第二の人生」なんてものではなく、本格的な高齢社会の到来の中で、ギンギラの現役時代丸出しで「第一・五の人生」を頑張れる様、指導者達をきっちり育成して行く、高齢者大學に変貌する過程なのかもしれない。 

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