飲料水

お風呂に入れなくても、着替えることが出来なくても我慢をすればいいことですが、もし、水がなかったら? 


  当り前かもしれないが、やはりペットボトルの水を常時数本備蓄している。水道管破壊により水の復旧が一番遅かった。災害時は1日1人1リットル必要で、2日分は自分で用意。行政が動いて、水が到着したのは3日目と聞いたように思う。

(東灘区、63歳、女性)

  飲料水を確保するため、庭の水道栓の近くにバケツを置いて毎日水を満パイにしていた。火災予防・初期消火が主目的であったが飲料水として役立った。

(兵庫区、男性)

  翌朝の食事用水としてヤカンに水を入れてガスコンロの上で準備していた。ほこりが全く入っていなくてそのまま飲料水として使用出来た。

(兵庫区、男性)

  早朝にもかかわらず起きていたのと、家が倒壊しなかったので、停電、断水に備えて、水と食料を確保することに努めました。炊き上がっていたごはんでおにぎりを作り、米をとぎ、もう一度炊き、それもおにぎりにしました。水はやかんや鍋、ポットなど、出来る限り汲み置きました。冷蔵庫のハムやきゅうり、チーズなどをパンに挟みサンドイッチを作りました。二度目のごはんが炊き上がってから停電、断水になりましたが、2人で3日分の食料と水になりました。

(須磨区、65歳、女性)

 災害が起これば大変なことを実感しました。被災地ではライフラインが遮断されました。そこで、飲料水の確保(2日分位)、保存食少々を。

(灘区、70歳、女性)

  当時飲み水はジュース、ビールの蓄えがあったのでそれで当分しのげた。

(東灘区、57歳、男性)

  私は平成7年1月のあの日、避難所に行くことが出来ず寒さと余震におびえながら、散乱した家の中で行政からの援助もなくすごしました。6日目に電気、30日目に水道、70日目にガスが復旧しましたが、普段あたり前のように思っていたものがいかに大切なものか。戦争で焼け出されて身一つになった当時と同じことを五十余年ぶりに体験しました。その時の経験から、私自身はあまりパニックになりませんでした。お水がなければ生きていくことが出来ません。たまたま買い置いていた牛乳数パック、食パン、それから高速大開駅から地下水がふき出していましたので、それを飲み水にしてすごしました。

(兵庫区、67歳、女性)

  実母が亡くなって17年になりますが、その母は私が子供の頃から、「生きていきながらも、明日はわからないよ」と言っていました。何時も1食分の食糧と飲み水は切らすことがなかった。お水は1mもある大きなかめに水をきれいにしてくみ置きしていましたので、私もそうしなければいけないと思い、生きて参りました。結婚してからも、親と同じように、かめがないのでポンジュースのビンを利用して、飲み水を30本30リットルくみためて生活をしており、食べ物は冷蔵庫を3つ置き何時も満たんにしていました。震災の折は正月過ぎでお餅を沢山作り、3つの冷蔵庫に分けて入れていましたので、ご近所、会社、友達、お得意様等に一食分助けることができ、母の言葉が大変役に立ちました。私の知り合いで地震の起きた時にコップ1杯の飲み水がなかった人もいました。私は今でも母の言葉を守って生活をしています。

(長田区、64歳、女性)

  平成7年1月17日午前5時46分、この日、この時間は震災に遭った方々は生涯を通じて決して忘れることはないでしょう。突然大きく前後左右の激しい震動に襲われ、かつて経験したことのない阪神・淡路大地震の始まりだった。幸い家族は怪我もせず無事でした。次に障子を開けて見ると本棚は倒れて内の本は部屋中いっぱいに散らばっている。台所はと見ると、床一面食器類が散乱、水栓をひねっても一滴の水も出て来ない。玄関のドアをこじ開けて表へ出ると、東の空には黒煙がもうもうと立ち込め、大変な事だとは判っても情報がなかなか思うように入って来ない。とにかくまず水を何とかしなければとあせっても、給水車が来ると言うニュースだけで車は姿さえ見えない。容器を持ってうろうろしていると、見知らぬ人から「あそこへ行きなさい。井戸があるので水は頂けますよ。」と声を掛けられて、その家の方に頼んでこころよく水を頂くことが出来ました。ことに臨んでイザという時にうろたえず、あわてず、しかも悠々としてことに当たるということは至難のことです。ここで私見として就寝時には大きな容器幾つかに水を1杯入れて置く。

(垂水区、72歳、男性)

..