2003.8.1
「再び,司馬遼太郎ノススメ」

         
              大村益次郎像

 司馬遼太郎の『花神(かしん)』を読んだ。主人公は大村益次郎こと村田蔵六である。
 蔵六は文政7(1824)年,長州(山口県)の村医者の家に生まれた。蘭学を学んだ後,父の跡を継いだが,その蘭学を認められ,宇和島藩や幕府に招かれた。従事したのは,オランダ語で書かれた書物の翻訳とその内容の教授である。その後,彼は故郷の長州に帰る。そして藩に取り立てられ,最終的には軍事の最高責任者として官軍を統率した。

 蔵六が歴史の表舞台に登場する期間は確かに短い。現代においても,坂本竜馬や西郷隆盛に比べ,圧倒的に知名度が低い。しかし,明治維新という革命においてその存在は極めて大きかった。その証拠に,蔵六は戊辰戦争の論功行賞で,西郷隆盛の二千石,木戸孝允・大久保利通の千八百石に次ぐ,千五百石を受けている。その割に存在が地味なのは,竜馬のような「華」もなく,西郷のような「人望」もなく,ただひたすら「技術屋」として仕事に徹した面白味のなさからくるものであろう。
 ただ,逆にこの「面白みのなさ」が何とも言えない魅力になっているとも言える。蔵六の凄さは,その「想像力」と「直観力」にあると司馬氏は言う。彼は百姓の出であり,長州軍の“司令官”となったとき,彼の実戦経験は皆無であった(それどころか終生,馬にさえ乗れなかった。そのため,長州軍では“司令官”が徒歩にて行軍するという異様なな光景が展開された)。全ての戦略は,オランダの兵法書を翻訳する際に身に付けたものであり,それは「机上の空論」に終わる可能性を常にはらんでいた。それが「空論」にならなかったのが蔵六の天才たる所以であり,これは天分としか言いようがない。彼の「想像力」「直観力」は,他の追随を許さないレベルであった。
 しかし,蔵六の人生は突然に終焉する。彼は明治2(1869)年,京都三条の旅宿で不平士族に襲われ,その2ヵ月後に死去した。享年46歳であった。

 「花神」とは中国の言葉で,花咲爺を意味する。全国に革命の花が咲き,明治維新が成るためには,蔵六という「花神」の登場が必要であった。しかし,この「花神」自身はたいそう無愛想で,人気もなく,武芸の心得などもなく,よって華やかさが全くない。そんな男が,兵制の改革者として突如登場し,平然と事を為し遂げてしまうあたりは,幕末という乱世ならではと言えるだろう。
 司馬氏の『峠』を読んだとき,「これこそ名作中の名作」と思ったが,私には『花神』の方がより性に合うようだ。自信を持って,一読をお薦めする。

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