2004.1.14
「黒門」

   
               黒門(円通寺)

 南千住で松陰の墓をお参りした後,私はそこから歩いて15分の場所にある円通寺という寺院を訪れた。円通寺には「黒門」なるものがある。
 戊辰戦争で幕府軍は次々に敗退した。京都では鳥羽・伏見の戦いに敗れ,東京では江戸城を無血開城した。ただ,無血開城といっても,それに反対して「徹底抗戦すべし」と主張した幕府内の勢力もあったわけで,それらの人々が「彰義隊」を結成し,東京・上野あたりで抗戦した。なぜ上野かというと,上野には徳川将軍の菩提寺・寛永寺があったからだ。これを鎮圧すべく新政府軍(官軍)を指揮したのは大村益次郎だった。
 兵の数は,益次郎率いる官軍の方がやや多い。しかし,城塞に等しい寛永寺に立て籠もる彰義隊を攻めるに十分な数とはいえなかった。また,彼にとっては勝ち方も問題だった。つまり,いかに江戸を火の海にすることなく勝つか,ということである。こういったことに対し,彼はぬかりがなかった。まず,当時としては珍しいアームストロング砲を用意し,時を見計らって砲撃することにした。また,過去に江戸で起きた火災の状況について調べ,火の広がり方を研究し,それに基づいて作戦を決定していった。結局,この「上野戦争」と呼ばれる戦いで,官軍は完勝した。この瞬間,益次郎は天才指揮官の名を不動のものとした。
 この上野戦争における最大の激戦地が,寛永寺の正面にあった黒門付近だった。この黒門は戦争後,有志によって南千住の円通寺に移され,保存されることになった。

 円通寺を訪れた私は早速,黒門を見ることにした。黒門はフェンスの囲いの中に保存されていたが,私は一目見て「ウッ」となった。その名の通り黒い門なのだが,弾痕が凄まじいのだ。門の裏側には全くないが,表側には無数の弾痕がはっきりと見え,官軍の攻撃の凄まじさを物語っている。芭蕉の「兵(つはもの)どもが夢の跡」という句を連想させるたたずまいである。その門の前に立ち,ここで戦った彰義隊の心情を察すると,いわゆる“滅びの美学”を感じてしまう。運命を知りつつも,徳川に忠誠を尽くした彰義隊。まさに義を彰し,死んでいった人たちであった。    

 上野公園には,かの有名な西郷隆盛像があるが,そのすぐ近くに彰義隊の墓があることを知る人は少ない。私は上野に行くと,必ずそこを訪れる。益次郎ファンの私にとっても,彰義隊には心うたれるものがあるからだ。そのたたずまいは何とも言えず寂しいが,彰義隊らしくてよいと私は思っている。

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