2003.11.27
「崇神天皇の“皇居”」

   
              磯城瑞垣籬宮跡

 奈良に“山の辺の道”という古道がある。道程が約15qあり,道中には有名な崇神天皇陵や景行天皇陵がある。崇神天皇陵は全長240メートル,景行天皇陵は同290メートルで,どちらも前方後円墳である。とにかくその大きさには驚かされる。
 さて,崇神天皇である。彼は第10代の天皇であり,実在した最初の天皇ではないかと言われている(初代〜第9代は架空の天皇である可能性が高い)。彼は後に大和朝廷となる原大和国家をつくったとされる。いや,「つくった」というのは正確でないかもしれない。恐らく,当時は豪族同士で話し合って大王(当時,まだ「天皇」という称号はなかった)を立て,政治を行っていたはずだ。つまり“連合政権”だったわけで,崇神天皇が“君臨”して国家を統治した,ということでは決してない。
 ここで私には疑問が湧いた。大王がそこに御座します以上,その場所は“皇居”であるが,崇神天皇の皇居は一体どこにあったのだろう。きっと御陵近くだとは思うのだが。。。
 そう,確かにそれは御陵近くにあったらしい。大神神社の神体山として古代より有名な三輪山の南西山麓に,志貴坐御県神社がある。村の鎮守さまさながらの素朴な神社であるが,その境内に「磯城瑞垣籬宮跡」と刻まれた石碑が立っている。「磯城瑞垣籬宮」。。。これが崇神天皇の皇居の名称である。つまり,この神社の建つ場所が崇神天皇の皇居だったという。言われなければただの小さな神社であるが,言われてみると「ほう,そんなものか。。。」と思えてしまう。それにしても,なぜここに皇居が構えられたのか。その理由は今となっては知る由もないが,いろいろに推測したりするのは楽しいことである。
 ちなみに,当時は大王が交代するたびに皇居も移動したらしい。たとえば,第12代・景行天皇の皇居である纒向日代宮は,磯城瑞垣籬宮の北約2qの場所にあったという。
 ただ,これらはあくまで推定地である。実際にそこに存在していたかといえば,その可能性は低いかもしれない。でも,それはそれでよいではないか。史実を大切にしながらも,史実のみではカバーしきれないところをロマンで埋めていくのが,古代史の魅力である。
 先日,私は初めて,志貴坐御県神社を訪ねてみた。雨に煙るその姿は,非常に寂しくもあり,不気味な感じもした。しかし,石碑の「磯城瑞垣籬宮跡」という文字を見ると,私の想像力はどんどん膨らみ,いつしか自分が1700年前にタイムスリップしたかのような感覚になった。。。
 こんな小さな神社にも,様々なドラマが眠っているのが,大和のすごいところである。

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