2004.1.13
「吉田松陰」

         
          吉田松陰の墓(回向院)

 吉田松陰は30歳で死んだ。それを初めて知ったとき,私は驚いた。彼の功績からすると,30歳はあまりにも若い。若すぎる。
 松陰は多くの逸材を育成した思想家だ。彼の私塾「松下村塾」が輩出した人物には,高杉晋作・久坂玄瑞・前原一誠・伊藤博文・山縣有朋等がいる。蒼々たるメンバーだ。彼の教育法のこつは,司馬遼太郎によると「門生の長所をじつに的確にひきだしてきて,それを天下一とか防長随一とかいったふうにとほうもなく大きくおだてて興奮させるところにある」らしい。確かに彼の書いた弟子への手紙には,そういった文面がよく見られる。教師にとっては興味深い事実だ。
 松陰は1859(安政6)年,安政の大獄によって江戸に護送された。数ヶ月の取り調べの後,幕府は彼の死罪を決定する。それを予感した彼は,急ぎ弟子宛に手紙を書いた。『留魂録』である。「身はたとひ武蔵の野辺に朽ちぬとも留め置かまし大和魂」という歌で始まるこの文章は,10月25日に書き始められ,翌日の夕方に完成した。
 10月27日,朝。この日の江戸は見事な晴天で,富士がよく見えた。松陰は小塚原刑場に引き出され,斬首された。刑を執行したのは浅右衛門という人物だったが,後日「今まで斬った人物の中で最も堂々としていた。見事な最期だった」と語ったという。

 先月,私は私用で東京へ行った。時間に余裕ができたので,どこへ行こうかと考えていたが,「そうだ,松陰の墓を参ろう」と思い立った。彼の墓は南千住と世田谷にある。かつて小塚原刑場があったのは南千住であり,刑場に隣接するかたちで回向院があった。彼はその回向院に葬られたが,4年後,高杉晋作が世田谷に改葬した。よって,回向院の墓は正確には元の墓ということになる。
 南千住駅を降りると,道の向こう側に交番がある。そこで道を尋ねようと歩いていくと,尋ねるまでもなく,そのすぐ隣に回向院はあった。たくさんの墓が建ち並ぶ中,松陰のそれは中央の広場の正面に建っていた。司馬遼太郎の『世に棲む日日』の一場面を思い出しながら,私は静かに手を合わせた。。。
 それから,小塚原刑場跡へも行ってみた。この刑場では,江戸時代を通じて21万人以上もの人々が死刑になった。刑場跡は,今は墓地になっていて,その中央にはその名も「首切り地蔵」という大きなお地蔵様があった。それにしても,いくら墓地とはいえ,やけに暗く,寂しく,不気味な場所だ。150年前,松陰はここで斬首された。嗚呼,その無念さはいかばかりだったろう。。。

 吉田松陰のファンは多い。私もそのひとりだ。今回,南千住を訪れて松陰を偲ぶことができたのは,一ファンとして貴重な体験だった。本来なら世田谷にある松陰神社も参拝したいと思ったのだが,それは時間が許さなかった。次回のお楽しみとしておこう。
 最後に,私は再度言わずにはいられない。「松陰は30歳で死んだ。彼の功績からすると,30歳はあまりにも若い。若すぎる」と。。。

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