2004.11.1
「聖徳太子の謎」

 今日から霜月11月。旅行するにはいい季節となった。ここ数年,11月になると必ず旅行に行っている。その空気が旅行に赴かせる。。。そんな感じである。

 私は非常に分かりやすい質で,新選組の本を読めば京都に行きたくなるし,中大兄皇子の本を読めば飛鳥に行きたくなる。行きたくなるだけではなくて,実際に行ってしまう。その身軽さは,独身ならではかもしれないな。。。

 さて,今年はどこへ旅行に行こうかと考えた矢先,1冊の本に出会った。『聖徳太子の謎』である。
 聖徳太子。なぜか昔から人気がある。「太子信仰」という言葉がある通り,人々は聖人君子として崇め,頼りにしてきた。その人気は現代でも変わらない。一時はお札にもデザインされていた。

 しかし,だ。太子の実像は謎に満ちている。基本資料は『日本書紀』だが,その記述だけでは実像を明らかにするのは困難だ。『日本書紀』を読んでもらえば分かるが,太子の業績は以外に少ない。たとえば冠位十二階は太子の遺業の1つとされているが,『日本書紀』ははっきりそうだと言っているわけではない。正確に言えば推古朝の業績となる。

 そんな太子のいくつかの謎について考察したのがこの本だ。そのあらましはこうなる。

@現存の法隆寺が再建されたものであることは間違いない。
A太子が比類なき聖者として描かれたのは,蘇我入鹿を悪役に仕立て上げるための方便である。
B中臣鎌足が上宮王家滅亡の黒幕であり主犯である。よって,鎌足の末裔・藤原氏は太子の祟りを恐れていた。
C太子を含め,7世紀の蘇我系の政権は「トヨの政権」であり,長屋王は「トヨの政権」の末裔であった。藤原氏はその長屋王を抹殺したが,その後,藤原四兄弟は全滅してしまう。そこで,藤原氏は太子の怨霊を封じ込めるために,法隆寺を丁重に祀り始めた。

 どこまで信用するかは別として,考察としては非常に興味深い。こういった追究の楽しさが存分に味わえるのが,古代史の魅力である。

 聖徳太子はあまりにも有名だが,その墓所を知る人は少ないのではないか。それは大阪,その名も太子町にある。近くには推古天皇(太子の叔母)陵や用明天皇(太子の父)陵,小野妹子(遣隋使)の墓もあり,一帯は“王陵の谷”とも呼ばれる。

 ガイドブックによれば,“当麻道”なるものもある。当麻寺から二上山を経て太子廟まで約13qあるというが,歩いてみるのも一興かと思う。

 どうやら,今年の旅行は聖徳太子を巡る旅になりそうだ。

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