2005.2.28
「安土城趾」

   
                 大手道

 安土城は,琵琶湖のほとりにあった。私がその城趾を訪れたのは,2月も末。大気は冷たいが,日差しは何となく春の訪れを予感させる日であった。

 車で不破関から近江に入り,寝物語や彦根城を見て回った後,私は安土城をめざした。確かな地図を持っていなかったため,道路の案内板だけを頼りに西へ西へと進んでいった。
 「安土町」の表示が目に入った矢先,「安土城」の大看板が出現したのには,やや驚かされた。どうやら到着したらしい。
 妙なのは,辺りに全く琵琶湖の存在を感じないことだ。
「ここが本当に琵琶湖のほとりの安土城なのか?」と感じるのは,恐らく私だけではないだろう。
 駐車場に車を止め,ある種の感慨を保ちながら,大手道へと向かった。そのとき初めて気づいたのだが,安土山はこの日,かすかに雪をかぶっていた。

 大手道を進み始めてすぐ,私は「ほう。。。」と感嘆の声を漏らしてしまった。上に向かって,石段が見事に続いていた。もちろん,近年になって修復された石段ではあるが,実に素晴らしい。さすが,信長の城である。
 大手門跡付近には小屋があって,竹杖がたくさん置かれていた。「ご自由にお使い下さい」ということらしい。いつもなら,絶対にこういう物には頼らないのだが,今回は何となく拝借した。
 それにしても威圧感のある石段である。私などはこれを見ただけでも,はるばる近江へ来た甲斐があったと思ってしまったが,まだまだ先がある。
 石段は,前田利家や羽柴秀吉の屋敷跡を横目に,しばらく真っ直ぐに続いており,その先は大きく左へ曲がっていた。
 その辺りで,石段に埋め込んである石仏を目にした。信長は,墓石や石仏なども石材として平然と使用したという。いかにも信長らしいではないか。
 道をどんどん行くと,その先は二手に分かれる。左へ行くと,かつてハ見寺のあった場所へ出る。右へ行くと,本丸へ向かう。一瞬迷ったが,左へ折れてみることにした。ここら辺の雪が一番深いように思った。
 信長は,安土城の中に寺院をこしらえた。それがハ見寺である。今では三重塔と二王門が残るのみだが,信長の城に寺院があったというのも,これまた面白い事実ではある。

 ハ見寺跡を見学し,本道に戻ったが,石段はまだ続いている。この石段の険しさは一体何なのだろう。ふと見ると,道の脇には森蘭丸の屋敷跡の碑が立っている。なるほど,蘭丸の屋敷は本丸からかなり近いところにあったらしい。
 黒金門跡を通り過ぎ,やっと本丸跡に足を踏み入れた。さて,いよいよ天主跡である。小さな石段をトントンと駆け上がると,そこには天主の礎石群が広がっていた。
 かつて信長は,この場所で天下に号令した。しかし,天主がその姿を煌(きら)めかせたのは,わずかに3年余りだった。
 私はしばし,その場に立ち尽くした。ひたすら,儚(はかな)さを思った。

   
            天主跡より琵琶湖を望む

 天主跡まで来たとなれば,是非とも琵琶湖を見なければならない。見ると,天守台の端の石垣が一部崩れていた。私はそこから登って,石垣の上をつたい歩いた。
 前に目をやると,なるほど琵琶湖が見えた。司馬遼太郎さんが「やられた」と言ったのと同じ景色を見ているのだと思うと,それだけで嬉しくなった。
 そのとき,たまたま近くにいた観光客の女性が,実感の込もった声で言った。
「ここまで毎日登ってくるなんて,信長も大変だったのね」
 毎日かどうかは知らないが,しかし確かにこの道を往復するのは楽なことではない。果たして信長は,この道をどう登っていたのだろう。籠のようなものを使ったりしたのだろうか。まさか馬は使っていないだろう。そんなことを思っていると,やけに滑稽になってきた。

 信長が本能寺の変で倒れたのは,1582(天正10)年6月2日のことだった。その13日後,安土城は大部分が焼失した。記録には放火と記されているが,詳細は不明である。

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