2005.8.17
「 二 条 城 」

   

 二条城について書きたい。
 二条城は慶長八年(一六〇三)、家康が京都御所の守護と将軍上洛の折の宿泊所として造営した(当初は現在の二の丸部分しかなかった)。三年後には、ここで家康と秀頼が会見している。
 城の拡張を図ったのは家光で、寛永三年(一六二六)には本丸・二の丸・天守閣が完成し、今の規模となった。ちなみに五層だった天守閣は、寛延三年(一七五〇)の落雷で焼失し、以後再建されなかった。
 戦後、二の丸御殿の六棟が国宝に指定され、現在は城のすべてが世界遺産に登録されている。

 二条城を語る際、
「大政奉還」
 について触れないわけにはいかない(大政奉還の意義を知ってこそ、二条城の存在はきら星のごとく見えてくる)。
 あるとき勝海舟が、
「薩長連合、大政奉還、あれァ、全部竜馬一人がやったことさ」
 と語ったことがある。ややオーバーな表現ではあるが、誤りともいえない。
 竜馬の業績は数多いが、最後にめざしたのが大政奉還だった。
 慶応二年(一八六六)七月、十四代将軍・家茂が病死した。享年二十一。脚気だった。当時、幕府は第二次長州征伐の真っ最中だったが、将軍の死で戦闘を中止せざるを得なくなった。
 家茂のあとを受けて同年十月に十五代将軍となったのは、水戸の烈公、徳川斉昭の七男・慶喜だった。彼はフランスの支援を受けながら幕政の建て直しにつとめた。軍備の充実も積極的にすすめた。
 しかし、幕府は長州征伐の後始末で薩摩藩と衝突し、薩長両藩は武力討幕を決意した。これに対し、かの竜馬が後藤象二郎と図り、前土佐藩主・山内容堂を通して慶喜に大政奉還(政権を朝廷に返還すること)を勧めた。
 要は、慶喜がどう決断するかだった。古今東西、兵戦を用いず、ただ国と民のためのみを思ってその政権を他に譲った例は、日本にも中国にも西洋にもない。果たしてそんな、
「奇手」
 を、慶喜が放つことが可能かどうか。

 慶応三年(一八六七)十月十三日、昼過ぎのこと。
 前日の知らせを受け、四十藩の代表者が二条城にぞくぞくと入城した。総数、六、七十人。
 会場は、城内大広間の二の間である。午後二時前、一同着座した。慶喜は出ていない。
 しばらくして何枚かの書類が回覧された。それには将軍のお言葉が書かれている。将軍と陪臣との身分がかけ離れているため、こういう形式とならざるを得ないのである。
 広間は何となくざわめいているが、みだりに声を上げるような不作法な者はいない。

   このため後藤象二郎は、
   (はたして吉か凶か)
   と身を揉みたくなるようないらだちを覚えているが、
   書類が回覧されてくるまで、わからない。やがてそれ
   がまわって来た。
   後藤は拝礼し、手にとった。
   (あっ)
   と叫びたくなるほどに喜悦した。
   政権を朝廷に帰り奉り、広く天下の公議を尽くし…。
   という旨の一行が目に入ったのである。
              (司馬遼太郎著『竜馬がゆく』より)

 この劇的な場に、慶喜自身が居合わせたかはよくわからない。司馬作品でも、『竜馬がゆく』では別室にいたことになっているし、『最後の将軍』では慶喜自らの口で宣言と説明をしたとなっている。いずれにしろ慶喜にとっては人生のクライマックスの瞬間だった。
 竜馬はその結果を後藤からの手紙で知った。そのとき吐いた言葉が古格な文語となって語り継がれている。
「大樹公(将軍)、今日の心中さこそと察し奉る。よくも断じ給へるものかな、よくも断じ給へるものかな」

 実際に行ってみるとわかるが、二条城は華麗さと荘厳さを十分に兼ね備えた城といえる。
 見所は、何といっても国宝・二の丸御殿である。
 車寄から中へ入ると、まずは遠侍の間がある。登城した大名の控え室だったところで、三部屋に分かれている。そこからうぐいす張りの廊下をどんどん行くと式台の間である。ここは登城した大名が老中たちに挨拶する場所だった。その先が大広間で、大政奉還が発表されたのはその一の間、二の間だった。
 大広間は豪華な装飾で彩られている。天井や襖には金箔が施してあり、その金はくすんで見えるが、それさえこの空間の格式の一部となっている。障壁画には松の巨木や松鷹が描かれている。狩野探幽の作という。
 二の間にはいくつもの人形が並んでいる。どの人形もかしこまって座り、頭を垂れている。その先におわしますのが将軍で、つまり将軍と大名の面会の場面を人形で再現しているのである。
 将軍が着座する一の間は、格式高い書院の造りで、天井は二重折上格天井(将軍が座る上の天井が一段高い)になっている。また、一の間の方が二の間に比べて一段高い。この数十センチこそ将軍の、
「権威」
 そのものである。これを見たとき、私はある種の感慨を持った。
 一の間は、広い。その真ん中に将軍(の人形)がぽつんと座っている。この光景は現代人に、
「将軍というものがいかに不可侵の存在(のはず)だったか。場合によっては、いかに孤独な存在だったか」
 ということをまざまざと実感させる。
 大広間は、その荘厳さにも格別のものがある。人は、歴史の場面に居合わせているような気分になる。

 二条城に見られる将軍の権威は、人間が半ば人工的につくりあげたものといえる。しかし、徹底的につくりあげられたそれに、私は美しささえ感じる。
 江戸幕府の将軍の中には、能力に乏しい人物も多かった。それでも将軍の存在は長い間、不可侵だった。
 幕末、将軍の権威は堕ちるところまで堕ちた。それでも将軍は将軍だった。

   後藤(象二郎)ほどのふてぶてしい男でさえ、うまれて
   はじめて体験する将軍拝謁に畏縮し、額、首すじか
   らみぐるしいほどの汗を流した。
             (司馬遼太郎著『最後の将軍』より)

 征夷大将軍(将軍の正称)とは、そういう存在なのである。

 二条城はかくも当時の気分を今に伝える貴重な、
「歴史的場面」
 であり、その存在は限りなく大切にされるべきだと思う。

 余談だが、二条城を訪れる外国人はとても多い。よって、パンフレットも日本語・英語兼用のものが売られている。
 そもそも討幕運動のきっかけは、外国人の来航だった。外威のために人々は大騒動し、結果的に幕府は倒れた。
 その外国人が列をなして、二条城の御殿の廊下をものめずらしそうに歩いている。幕末における攘夷主義の最も激烈な人物は孝明天皇だったが、この光景を見たらきっと卒倒するだろう。
 時の流れを感じずにはいられない。

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