万葉集を歩く
〜 飛鳥から二上山へ 〜
  
            甘樫丘付近

采女の 袖吹きかへす 明日香風
都を遠み いたずらに吹く
《世が世なら女官たちの袖を吹き返す風が,都が遠くなり,むなしく吹いている》

志貴皇子(巻一・51)

 甘樫丘の中腹に,この歌の歌碑がある。藤原京遷都で寂れた廃都の様を際立たせている歌である。ちなみに,志貴皇子は天智天皇の子。

                *

  
               雷 丘

大君は 神にしませば 天雲の
雷の上に いほりせるかも
《天皇は神だから,天空の雷の上に行宮を造られた》

柿本人麻呂(巻三・235)

 天皇が雷丘に行った折に,人麻呂が詠んだ歌だという。地名にことよせて天皇を大らかに讃えている。この天皇は持統だろうか。

                *

         
            蘇我入鹿首塚

大口の 真神の原に 降る雪は
いたくな降りそ 家もあらなくに
《真神原に降る雪よ,ひどく降らないで。辺りに家もないのに》

舎人娘子(巻八・1640)

 古代,入鹿首塚のある辺りは,真神原と呼ばれていた。首塚の姿といい,歌の内容といい,実にわびしげである。この一首,白鳳期の歌。

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           飛鳥浄御原宮跡

大君は 神にしませば 赤駒の
腹這ふ田居を 都と成しつ
《天皇は神だから,田圃を華やかな都になさった》

大伴御行(巻十九・4284)

 天武天皇の偉大さを歌った天皇讃歌である。作者・大伴御行は壬申の乱で活躍した人物。ちなみに,「大君は 神にしませば」で始まる天皇讃歌は,万葉集に6首ある。

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               橘 寺

橘の 寺の長屋に わが率寝し
童女放髪は 髪上げつらむか
《橘寺の長屋で共に寝た振り分け髪の童女は,髪を上げて一人前の女性になっただろうか》

作者不詳(巻十六・3844)

 橘寺は聖徳太子生誕の地と伝えられる。この歌の内容,寺で不謹慎なと思われるかもしれないが,当時としてはごく当たり前だったといわれる。

                *

  
           天武・持統天皇陵

淑き人の よしとよく見て よしと言ひし
吉野よく見よ 良き人よく見
《昔の貴人(天武・持統)が良い所であるとよく見て,良いと言った吉野をよく見よ,良き人たる人よ》

天武天皇(巻一・27)

 この歌は,天武天皇が皇后(後の持統天皇)と皇子たちを伴って吉野を訪れた際に詠んだもの。とにかくリズムが良い。天武の崩御は686年。葬儀は2年2ヶ月の長さに及んだ。

                *

  
         藤原宮跡より香久山を望む

春過ぎて 夏来たるらし 白たへの
衣干したり 天の香具山
《春が過ぎ,夏が来たらしい。白い布の衣が干してある》

持統天皇(巻一・28)

 あまりにも有名な歌。詠んだ場所はおそらく藤原京。天武天皇生存中に着工した藤原京への遷都は,持統天皇即位後8年(694年)のこと。

                *

  
              香久山

大和には 群山あれど とりよろふ
天の香具山 登り立ち 国見をすれば
国原は 煙立ち立つ 海原は
かまめ立ち立つ うまし国ぞ
あきづ島 大和の国は

舒明天皇(巻一・2)

 舒明天皇が香久山で国見をしたときに詠んだという国褒めの歌。香久山は天から降った山だといわれ,大和三山の中でも別格の神聖な山だった。

                *

  
          畝傍山(背後は二上山)

香具山は 畝火ををしと 耳梨と
相争ひき 神代より かくなるらし
いにしへも しかなれこそ
うつせみも つまを 争ふらしき
《畝傍山をめぐって香久山と耳成山が争ったと言い伝えがあるが,昔もそうだったように現実の世も恋人を争っているようだ》

天智天皇(巻一・13)

 これは天智天皇が皇太子の時代に,大和三山の伝説にことよせて恋の争いを詠んだ歌。弟・大海人皇子と額田王をめぐる三画関係を詠んだものともいう。

                *

  
              吉備池

百伝ふ 磐余の池に 鳴く鴨を
今日のみ見てや 雲隠りなむ
《磐余の池で鳴く鴨を見るのも今日が最後で,私は死んでいく》

大津皇子(巻三・419)

  
              二上山

うつそみの 人にある我れや 明日よりは
二上山を 弟背と我れ見む
《弟は遠い世界に行ってしまった。この世にいる私は,明日からは二上山を弟と思って眺めましょう》

磯の上に 生ふる馬酔木を 手折らめど
見すべき君が 在りと言はなくに
《岩のそばに生えているアシビを手折ろうと思っても,見せたい弟はもういない》

大伯皇女(巻二・165〜166)

 686年,大津皇子は父・天武天皇が死去するなり謀反の罪によって捕らえられた(しかし,実は皇后=後の持統天皇の策略だったとされる)。
「10月2日に謀反発覚,翌日の3日,死を賜った。時に24。妃の山辺皇女は髪を乱し,裸足で走り出て殉死した。見るものは皆すすり泣いた」(『日本書紀』の記述より)
 電光石火の処刑である。皇子の屍は後に二上山へ移葬された。

 「百伝ふ〜」は,皇子が死を賜ったときに,磐余の池の堤で涙を流しながら作った歌。磐余の池は桜井市池之内にあったというが,よく分からない。今は灌漑用の吉備池畔に万葉歌碑が建てられている。

 大伯皇女は皇子の同母の姉。彼女のその後の生涯については記録がないが,没年は701年,41歳だったという。

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             聖徳太子廟

家ならば 妹が手まかむ 草枕
旅に臥やせる この旅人あはれ
《家にいたら妻の手枕で寝ていただろうに,旅先で亡くなって横たわっているこの旅人がかわいそうだ》

聖徳太子(巻三・418)

 飛鳥から二上山を越えると,“王陵の谷”と呼ばれる一帯がある。そこに聖徳太子廟はある。それにしても,聖徳太子の歌が万葉集に収められていたとは,実に意外である。

(完)

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