日本人のひたむきさ

         
          大村益次郎像(東京)

 司馬遼太郎さんの作品に『花神』というのがあります。幕末に活躍した長州人・大村益次郎こと、村田蔵六の生涯を描いた作品です。
 私はこの作品が大好きなので、心に残る場面も数多くあるのですが、その中の一つに、蔵六が宇和島藩から造船の依頼を受けるという場面があります。蔵六はもともと、長州の片田舎・鋳銭司村の村医者の息子として生まれました。ですから、その跡を継いで村医者になるのが江戸時代の常識であります。そのために彼は学問に励みました。いくつかの塾の門を叩いたのですが、最も有名なのは、大坂にあった緒方洪庵の「適塾」に入門したことでしょう。ここで蔵六は蘭語をさかんに学んだのですね。そして最終的には、師の洪庵をも凌ぐ蘭語を身につけたといいます。
 その後、彼は一旦、故郷の鋳銭司村に帰って開業しますが、その蔵六に目をつけたのが宇和島藩だったのです。宇和島藩主は伊達宗城という人物でしたが、この人もなかなかの人物だったらしいですね。幕末の「四賢候」の一人に数えられておりますが、要するに「開明家」だったのであります。
宗城は、ペリーが来航した折、品川沖で黒船を見ています。そして即座に、
「日本もあれをつくらねば外国の侵略にうちまかされる」
 と考えたわけです。そこで白羽の矢を立てたのが蔵六でした。宗城は城に蔵六を呼びつけ、
「蒸気でうごく軍艦一隻と、西洋式砲台を一つつくれ」
 と命じました。蔵六は耳を疑ったでしょう。彼は単なる片田舎の村医者でありまして、軍艦も砲台も見たことさえないのです。ここらへんが幕末の面白いところでして、あまりに必死であるが故に、突拍子もない選択をしてしまうという世の混乱ぶりが見てとれる気がいたします。
 さらに面白い話があって、その後、軍艦すべてを蔵六につくらせるのは大変ということで、蔵六は船体のみをつくるべし、となりました。蒸気機関は別の人物がつくることとなったのですが、その人物がまたすごいのです。名前は「嘉蔵」といい、なりわいは何と「提灯のはりかえ」でありました。
「異人がつくるものを、宇和島の提灯屋がつくれぬはずがあるまい」
 ということらしいのです。このくだりを読んで、私は思わず笑ってしまいました。だってそうでしょう、提灯屋(正確には提灯屋でさえありませんが)に蒸気機関をつくらせるという発想は、普通は絶対にあり得ないですね。これはもう、当時の「気分」としかいいようがありません。
 結局、蔵六は砲台と船体を、嘉蔵は蒸気機関を見事、完成させたのでした。蔵六のつくった船体に、嘉蔵のつくった蒸気機関を装着し、国産としては二船目となる蒸気船(一船目は薩摩藩の手による)は無事、進水したのでした。これはまさに奇蹟ですね。黒船を初めて見てからわずか三年後、日本人が自力で同じような蒸気船をつくってしまったのも奇蹟なら、それを村医者と提灯屋がやってのけたのも奇蹟であります。
 この蒸気船の話を、私はとても感動的なエピソードと感じています。つまりは、蔵六と嘉蔵のひたむきさが感動的なのです。一見、不可能と思われるような無理難題に対し、二人は決してあきらめることなく対峙し、試行錯誤の末、ついにはやり遂げてしまいました。二人のひたむきさが奇蹟を起こしたわけです。

 司馬さんの作品を読みますと、幕末から明治にかけての日本人は、実にひたむきだったと感じますね。その要因はいくつかあると思います。
 一つは、日本が武士道の国だったということです。それは何も江戸時代だけのことではありません。明治になってからも、精神的には武士道が存在し続けたと思います。まだ日露戦争の頃には、それが色濃く残っていたように思われます。たとえば、司馬さんの『坂の上の雲』などを読みますと、そういったことを強く感じますね。
 あと一つは、幕末・明治の日本人は、常に外敵に怯えておりました。その始まりがペリー来航であったことはいうまでもありません。以来、日本は、
「いかに外国の日本侵略を防止するか」
 の一点のみに神経を集中させてきました。それ故に生じたのが、明治維新であり、日清戦争であり、日露戦争でした。そういった緊張状態の中、ひたむきに生きざるを得なかったという面はあると思います。

 思うに、現代の日本人は、もう少し過去の日本人の言動に触れ、そのひたむきさを感じ、それを自分の生活においても意識した方がいいんじゃないですかね。かつて司馬さんが、
「日本人には武士道の電流が今も流れている。その微弱なる電流を、もう少し強くした方がいい」
 といっていたことを思い出します。私は、ひたむきさを大切にすることと、司馬さんのいうことは、おおよそ同一だと思うのです。
 そういった観点からいえば、『花神』は古き良き日本人の、ひたむきさの凄味を感じさせてくれる作品であり、その点でも名著といえますね。