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東京小話
私は、春になるとなぜか東京へ行きたくなるんですよ。理由はよく分からないんですけれども。東京という街は本当に楽しい街でして、しかも実に重厚な歴史がある点がいいですね。
私はやっぱり渋谷とか六本木なんかは歩きませんね。なんか違う気がする。私はとにかく首都・東京の歴史に直に触れたいと思うんです。だとすると、やっぱり渋谷なんかは選ばない。基本的には江戸城を中心に考えます。
歴史を感じたいという場合、まず江戸城を見ないことには始まりませんね。私が江戸城跡を初めて見たのは、六、七年前だったでしょうか。その独特の空気が何ともいえませんでしたね。そのときは皇居外苑を歩いたんですが、向こうに坂下門や二重橋を望み、かの有名な桜田門をくぐったりしますと、それだけで体が震えるような感動を覚えました。いるだけで体が震えるような場所というのは、そうそうあるものではないと思います。
江戸城は、その周囲を見事な堀に囲まれていますが、一度この周りをぐるっとしてみるのが一番いいんですよ。歩くうちに、様々なことが実感として分かってくるんです。たとえば、一体この城の大きさは何なのだということです。このようなものは、コストパフォーマンスを考えると無用の長物ではないかと思えたりするんですが、それは違うんです。
私もこのぐるりを歩いてみたんですが、私は終始、感嘆の声をあげ続けていました。スケールがすごすぎるんです。この城を、参勤交代で江戸に上ってきた地方の大名やその家来達が見たとき、つまり私と同じような反応をさせるのがこの築城の目的なんですね。こんなものをつくらせる幕府になんか、絶対にかなうわけがない。そう思わせないとだめなんです、幕府の城というものは。「絶対に」という部分が大切で、だからこそ江戸時代の封建制は保たれるんです。
江戸城の最北に当たるのが、九段下あたりですね。この界隈も実に重厚な感じがします。有名な九段坂があって、その坂を上った先は靖国神社です。靖国神社の左手には日本武道館の「たまねぎ」も見えます。坂下には九段会館(旧・軍人会館)というのがあって、これまた独特な雰囲気を醸し出しています。これもまた、東京であります。
上野公園も好きですね。上野公園というと、すぐにパンダを想像してしまいそうですが、ここもまた歴史のある場所です。公園の入り口に西郷隆盛像がありますが、これ自体はなぜここにあるのか、その理由がいまいち乏しい。それよりもその裏手にある彰義隊の墓の方がはるかに歴史的意味があります。幕末、この上野の台地に、彰義隊なる江戸幕府の「残党」が立てこもったことがありました。本拠地は、上野公園内にある寛永寺でした。というより、今の上野公園は、当時はすべて寛永寺の境内だったんです。寛永寺は徳川将軍の菩提寺で、よって要塞のような規模を保持していました。その彰義隊を殲滅させたのが、長州の大村益次郎でした。この戦争は通称「上野戦争」といいまして、戊辰戦争の中でも激しかった戦いとして有名です。私はこの印象が強くて、上野を歩くときは必ず、
「この頭上をアームストロング砲の砲弾があちらへ飛んでいったんだな」
などと考えてしまいます。
南千住に行ったこともあります。観光で行く人は滅多にいないでしょう。実際、下町の商店街があるような場所ですから、観光地ではないんです。
ここにはかつて、小塚原刑場のあった場所であります。小塚原刑場では、江戸時代を通じて二十一万人もの人々が死刑になったといいます。今、刑場跡は墓地になっていまして、中央にその名も首切地蔵という大きなお地蔵様がまつってあります。昼間でも実に薄暗い、不気味な場所です。その墓地に隣接するかたちで回向院という寺院がありまして、その境内には吉田松陰の墓があります。
吉田松陰が安政の大獄で刑死したのは、安政六年の十月二十七日でした。伝馬町の獄舎で斬首され、本来、その遺骸は小塚原に捨て埋めにされるはずでした。しかし、松陰の門下生が奔走するんですね。そして、獄卒に、
「二十九日早朝、小塚原回向院まで遺骸を入れた樽をこっそり運んでやる」
と約束してもらうんです。この受け取りは桂小五郎などがつとめ、その場に墓をつくりました。
そのとき、偶然にも桂は、小塚原で罪人の死体を解剖する村田蔵六、のちの大村益次郎を見かけるんですね。これが、桂が大村をスカウトするきっかけとなりました。
これらは、いうまでもなく東京の歴史のほんの一部分に過ぎませんが、つまり東京は少し歩くだけでも様々な歴史に触れることができるし、想像力をかきたてられたりもする場所だということをいいたかったのであります。
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