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 日本史上、最もすぐれた教育者は誰かと問うたとき、多くの人は吉田松陰を挙げるだろう。確かに松陰は教育者として偉大である。彼の松下村塾が輩出した人物は蒼々たる顔ぶれであり、幕末の奇跡の一つといってよい。
 面白いのは、松陰が陽明学を帯びた思想家だという点で、よって松陰には突拍子もない行動がつきまとった。突然の脱藩や、独断によるアメリカ船への接近などがそれで、結果的にはその性質が災いし、彼の人生はわずか三十年で終わった。
 そういう意味で、松下村塾は純粋なる学問塾というより、思想塾だった。松陰による感化が最大の教育であって、それがすべてだった。

 純粋なる学問塾という点で最もすぐれていたのは、大坂の適塾だったかもしれない。蘭学医だった緒方洪庵が開いたもので、門生には福沢諭吉や大村益次郎、橋本左内、大鳥圭介など、幕末から明治にかけての文化大革命期に活躍した人物が大勢いる。
 洪庵は実に穏和な人だったらしい。塾生に対してはこの上なく親切で、声を荒げたことなど一度もなかった。
 塾には学習意欲の旺盛な若者が多く集まり、その数はのべ三千人にも及んだ。これほどの若者が集まった最大の理由は、幕末当時、にわかにもてはやされるようになった、
「蘭語」
 を教えていたことである。蘭語は当時の日本人にとって、きら星のような言語になっていた。

 依然、日本は鎖国の国だった。幕府は鎖国以来、長崎の出島のみを窓口とし、中国やオランダの文化のみを細々と享受した。やがて江戸時代も押し詰まり、日本はついにペリー・ショックを受ける。
 この衝撃は現代人にとっては想像しがたいかも知れない。以来、日本全体が、
「夷人」
 というウイルスによって熱病にかかったようになり、思考としては、
「外国の日本侵略をいかに防止するか」
 という一点のみに心を砕くようになった。つまり、明治維新のエネルギーは夷人によって生み出されたのであり、それがなければ日本の近代化は始まらなかった。
 日本には反面教師的国があった。清国である。清は、その主体性を維持できなかったために列強の侵略を受け、半ば国の体裁をなさなくなった。
 長州の高杉晋作は、当時の上海の有様を目の当たりにし、
「日本を絶対に第二の上海にしてはならぬ」
 と決心して帰国するのだが、高杉のような人物が侵略の悲惨さを実感していたというのは、長州、というより日本にとって幸運だったといえる。

 話を戻す。つまり、当時の日本は早急に外敵に備えるべく、西洋の知識と技術を欲した。この場合、頼れるのはまずオランダしかなく、そのため、に
わかに蘭語がわかる人物─蘭学者が重宝されるようになった。長州出身でかつて適塾の塾生だった大村益次郎がそのいい例である。
 彼はもと長州・鋳銭司村の村医者の息子にすぎなかったが、医学を志すべく適塾の門を叩いた。そこで蘭語をよく学んだ。
 蘭語の知識だけなら師・洪庵をもしのぐといわれるようになった大村は、一旦は故郷の鋳銭司村に帰るものの、その語学力を宇和島藩に見出された。
 宇和島が彼に命じたのは、
「蒸気でうごく軍艦一隻と、西洋式砲台を一つつくれ」
 ということだった。ここでのおかしみは、何と大村は軍艦も西洋式砲台も、その実物を見たことがなかったことである。船の知識をもつ者でなく、蘭語よみに造船をやらせたことになる。
 一見、滑稽な話だが、しかし、宇和島藩主・伊達宗城の判断は結果的に正しかった。八カ月後、大村は見事、軍艦を完成させた(ちなみに、その蒸気機関の部分を担当したのは、これまた意外にも、提灯はりかえ屋の嘉平という男だった)。
 このように、蘭語は当時の人々がこぞって求めた語学だった。若者たちはみな、立身出世のために必死で学ぼうとしたし、または国を背負う気概をもって学んだ者も多かった。(つづく)