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適 塾 A

さて、適塾についてである。洪庵がそれを開いたのは、天保九年(一八三八)のことだった。この塾の様子については、司馬遼太郎の『花神』という作品に詳しい。それによると、入塾した者はまず建物の二階へ通される。そこは畳敷きの広間で、広さは三十畳。常に塾生がたむろしている。住みこみは三十人ほどいるので、一人について一畳が居住区となる。住みこみは、勉学も寝起きもその一畳の中で行わなければならない。その畳の場所にも善し悪しがあって、西の隅の階段わきの薄暗い一角が最も悪い場所だった。昼さえロウソクがなければ書見などできず、夜は夜で階段近くのため、人の出入りが気になって仕方がない。当然、新米はこの一畳よりスタートする。ここから脱却するには、五日おきに行われる、
「輪講」
でよい成績を得るしかない。輪講とは、
要するに塾生自身が蘭書の講義をすることで、トッ
プにそれをやる者をくじびきできめる。首席者とい
う。それが蘭書の一くだりを和訳すると、つぎの順
番の者に質問をし、それに答えられなければ「敗
者」となって黒点がつく。うまく答えられた者は「勝
者」で、白点である。
(司馬遼太郎著『花神』より)
という学習制度で、この勝敗を一カ月単位で集計し、白点の多い者によい場所の畳を与えるのである。完全なる能力主義といってよい。
よって輪講の前夜になると、全塾生がほとんど徹夜で勉強した。その熱気は異様でありながら、感動的でもあったという。
この塾で輪講の前夜ともなれば、畳一枚ずつにそ
れぞれ机をかまえている塾生がほとんど徹夜する
ため、三十ほどの机の上にそれぞれロウソクがか
がやき、春日明神の万燈会のような光景を呈する。
(司馬遼太郎著『花神』より)
夏が最もいけなかった。蒸し暑い上に、夕方になると風がやんでしまう(土地の人はそれを夕凪といった)。三十畳に三十人前後が汗だらけで座っているのだから、その蒸しようはすさまじかったろう。
私は風景としてこのへんの光景を想像するのが好きで、とくに大阪の北浜に現存する適塾の建物を訪れたときは、その想像力が最高潮に達した。
二階の畳の部屋は、今もきれいに畳敷きになっている(もちろん当時の畳ではない)。その真ん中に柱が立っている。その柱にたくさんの傷がついているので聞いてみると、当時の塾生がつけた刀傷などだという。これを見ただけでも、当時の塾生の熱い息吹を感じることができて、うれしかった。
私は適塾の建物を見学しながら、当時の人々の勤勉さを思った。元来、日本人という民族は勤勉の質だったと思うが、幕末から明治にかけての日本人はとくにそうだった。前述した列強の脅威が、もともとあった日本人の芯(その成分の多くはおそらく武士道だったろう)をさらに太いものにした。
今日、その勤勉さが過去の遺産になりつつあるとは思いたくないが、現実はどうだろう。今も往時の姿をとどめる適塾の建物が、静かにそう問いかけているように思えてならない。(終)
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