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奈 良 散 歩 @
法隆寺五重塔
私はどうにも、
「奈良」
というところが好きで、毎年必ず二、三度は赴いてしまう。自分がどうしてこれほどまでに奈良が好きなのかはよくわからないが、おそらく人々を懐かしがらせる何かがそこにあり、それを求める心がある限り、人々は奈良へ赴くのではないか。
「お水取りでも、見に行きませんか」
と誘ってくださったのは、同僚の小林義和先生である。そういえば私は、
「お水取り」
というものをこれまで意識したことがなかった。その証拠に、
「お水取りですか、いいですねえ。たしか二月堂でやるんですよね。二月のいつ頃ですか」
と頓珍漢なことをいってしまった。
お水取りは、旧暦二月に行われる、
「修二会」
の中の一行事で、旧暦二月、今でいう三月の行事である。
今回の旅は、小林先生のほかに、同じく同僚の市川さんと漆原さんも同行した。男四人の気ままな旅である。ちなみに最年少は私で、平均年齢は四十ちょっとというところだろう。
三月四日、早朝。小林先生の車で、私たちは伊勢湾岸道路を西へと走った。この道路が奈良へ行くには快適な道路で、途中、名阪国道へと接続し、そのまま奈良へと続いている。いつもは一人で走ることが多い湾岸道路だが、今回はいつもと違って道中はにぎやかで、楽しかった。
私たちは奈良県に入って天理を抜け、法隆寺インターで下りた。
まず訪れたのは、法隆寺だった。法隆寺を訪れるのは、小林先生がある一枚の絵を是非とも見たいとおっしゃったからである。
その絵は、和田英作(一八七四〜一九五九)という洋画家が描いたもので、法隆寺の大宝蔵院にある。
和田は明治七年(一八七四)、鹿児島県肝属郡垂水村に生まれた。五歳のときに両親と上京し、十三歳で明治学院に入学した。そこで洋画の初歩を学んだ。以後、七年間はいろいろな師のもとを渡り歩いた。
明治二十九年(一八九六)、二十二歳の彼は黒田清輝らとともに白馬会の創立に参加、同年、東京美術学校西洋画科の助教授に任ぜられた。
また、二十五〜二十九歳の時期は海外で過ごしている。はじめはベルリンへの自費留学だったが、のち文部省留学生となり、パリなどに滞在した。途中、浅井忠と共同生活をしていた時期もあった。
明治三十六年(一九〇三)に帰国した彼は、すぐに東京美術学校教授に任ぜられた。この頃から帝国劇場や赤坂離宮、東京駅の壁画も手がけている。
晩年は東京美術学校長になった。彼の代表作「憲法発布記念式」を描いたのは、校長になって数年後の昭和十一年(一九三六)だった。昭和十五年(一九四〇)からは法隆寺金堂壁画の模写も行っている。昭和三十四年(一九五九)没。
和田は、私や小林先生の住む知立市に疎開していたことがある。昭和二十年(一九四五)から約六年間である。この間、知立の風景をさかんに描いた。「知立神社の杜」という作品があるが、これが小林先生のお気に入りの逸品である。あまりに好きだったので、小林先生はこの絵を模写までした。
小林先生は今回、まだ見ぬ和田の絵をこの目で見たい、という一心で法隆寺を訪れるのだが、一枚の絵のために世界遺産を訪れるというのも、まことに贅沢な話である。しかし、そういった心のもちようも、いかにも芸術家らしく感じられ、そういった感性をもちあわせている小林先生が私には羨ましかった。
法隆寺に着くと、私たちはまず参道を通って南大門へと向かった。法隆寺は南大門付近からして絵になる寺院で、もうここで私たちはカメラを取り出し、各々勝手に写真を撮り始めている。
南大門をくぐって正面に見えるのは、西院伽藍である。左右に金剛力士立像の立つ中門の奥には、五重塔がそびえ立っている。
私たちはゆっくりと回廊内へ入った。そこには、何度見ても見飽きることのない五重塔と、抜群の安定感を示す金堂がある。
法隆寺は世界最古の木造建築と称されるが、中でもこの五重塔と金堂は古い。創建はそれぞれ飛鳥時代末期と考えられる。
法隆寺は一度、焼失している。推古天皇十五年(六〇七)、法隆寺は聖徳太子によってつくられたとされるが、『日本書紀』には天智九年(六七〇)に火災があり、全焼したとの記述がある。その約四十年後、法隆寺は再建された。それでも法隆寺は、世界最古の木造建築なのである。
真っ先に目がいくのはやはり五重塔(国宝)で、ある。法隆寺の五重塔は、さすがに美しい。その理由の一つは、逓減率である。逓減率とは、上層へゆくにしたがって塔身が細くなる率のことをいう。法隆寺はこの逓減率が大きく、一番上の屋根の幅は、下の初重の半分(面積では四分の一)になっている。塔の構造を、上へゆくほど小さくちぢめてゆくようにすれば、はるかに天をめざすするどさが出るだろう、というわけである。これは、飛鳥時代の宮大工がすぐれているのだといってよく、たとえば室町時代に再建された興福寺の五重塔はこのようでなく、各層同じ大きさである。それでは全体として重くなってしまう(もちろん、その重さがいいのだという美意識も成り立つ)。
金堂(国宝)は、五重塔の東にある。法隆寺の金堂といえば、壁画で名高い。
金堂壁画は残念なことに、昭和になって焼失してしまった。法隆寺では、昭和九年(一九三四)よりいわゆる、
「昭和の大修理」
を行った。事件が起きたのは昭和二十四年(一九四九)一月二十六日のことで、当時、十四名の画家達が壁画の模写作業をしていた。極寒の時期だけに、画家達は電気座布団を用いていた。何とその座布団のスイッチの切り忘れが、出火の原因となった(事件後、この画家達は「電気座布団は作業のあと、たしかに消した」と証言した。また、焼失後、さらに幾年もの歳月をかけ、写真などから本物とまったく違わないような作品を復元した)。
現在、我々が目にしている壁画は復元模写されたものだが、それでも壁画のもつ荘厳さは十分に伝わってくる。その壁画があることにより、金堂内は独特の雰囲気を醸し出すことになり、見る人にある種の緊張を要求する。
壁画の手前には、いくつかの仏像が安置されている。金堂の本尊として安置されているのは、
「釈迦三尊像」(国宝)
である。如来像を中尊とし、左右に菩薩形の脇侍を配している。私はこの像をはじめて見たとき、これは聖徳太子の像ではないかと思った。その思いつきは決して悪くなかった。この像の光背には、像造立の由来が刻まれている。それによると、この像は聖徳太子の母・間人皇后が亡くなったとき、聖徳太子とその后・菩岐々美郎女があいついで病に倒れ、そこで周囲の者達が太子らの回復を願い、太子等身の釈迦如来をつくろうとした。ところが、太子と后はすぐに亡くなり、鞍作止利がそれを完成させたのは翌年のことだった。(つづく)
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