奈 良 散 歩 B

  
             東大寺大仏殿

 法隆寺を見学し終わり、参道にある食堂へと入った。ここで各々、撮った写真をチェックし始めた。
 漆原さんという人は写真撮影の達人で、その写真は実に美しい。よく古寺などを巡っては写真を撮り、それを自らのホームページで公開している。そのページを何度か見たことがあるが、色の鮮やかさは見事というしかない。用いているカメラは私と変わらぬように見えるのに、緑の色をあれほど鮮やかに表現できるのは特技といっていい。その漆原さんは、すでに皆の三倍以上の写真を撮っていた。さすがである。

 食事のあと、法起寺へ寄り道し、それから東大寺へと向かった。お水取りということで、道中どれほど渋滞するものかと心配したが、思ったよりスムーズに奈良公園まで入ることができた。
 奈良県庁の隣の駐車場に車をとめ、私たちは東大寺へと歩き始めた。依水園を左に折れて真っ直ぐ行くと、何やら石の階段が見えた。そこを上ったところに、東大寺戒壇院がある。
 私は今までこの戒壇院を訪れたことがなかった。東大寺を訪れると、どうしても大仏殿から東の界隈(二月堂や三月堂のあたり)に目が向いてしまうため、大仏殿の西側は死角になっていたらしい。
 この戒壇院を開いたのは、鑑真(六八八〜七六三)である。
 鑑真は六八八年、唐の揚州で生まれた。十四歳で出家し、二十一歳には正式な僧となった。以後、律宗を極め、四十代半ばには華中・華南で彼ほど戒律にすぐれた人物はいないといわれた。
 同じ頃、日本の仏教界には困難がもち上がっていた。授戒(正式に僧の資格を与えること)のシステムがまったく確立していなかったのである。その現状を打破すべく、興福寺の僧だった栄叡・普照の二人が遣唐船で入唐し、九年後、やっとの思いで鑑真と面会した。
 二人は彼に授戒僧の派遣を懇請した。最初、鑑真は弟子達に、
「誰か赴く者はないか」
 と尋ねたが、このとき弟子達は、

  衆は黙然として、一の応える者無し
                 (『唐大和上東征伝』より)

 だったという。そこで鑑真の述べた言葉が、

  何ぞ身命を惜しまんや。諸人行かざれば、我即ち去
  くのみ
                 (『唐大和上東征伝』より)

 というもので、つまり、自らその要請を受けたわけだが、鑑真の苦難はその瞬間から始まったといえる。彼はそれから五度も日本渡航に失敗する。その間、不幸にも失明し、栄叡にも先立たれたが、七五三年(天平勝宝五)、六度目の挑戦でついに鹿児島県に上陸した。このとき六十六歳、最初の渡航失敗から約十年かかっての悲願達成だった。
 彼はその後、平城京に入り、東大寺大仏殿の前に戒壇を築き、聖武上皇や光明皇后以下四百四十人あまりに授戒した。翌年、その戒壇は今の場所に移され、今日に至っている。現在の戒壇院の建物は享保十七年(一七三二)に再建されたもので、正面三間、奥行三間、屋根は本瓦葺きである。
 この戒壇院で、私は思いがけず四天王立像(国宝)に出会った。持国天・増長天・広目天・多聞天を合わせて四天王という。これらの塑像が戒壇院の建物内部の四隅に安置されていたのである。
「土でできてる四天王は、これしかないです」
 と、案内のお坊さんがいった。
「広目天の目が素晴らしいです」
 と、その人は観光客にいろいろ教えたくて仕方がないらしいが、教えられるまでもなく、私は北西の位置に安置されていた広目天像に釘づけになった。そのとき、私の心はにわかに躍動し、宝を発見したような気持ちになった。
 広目天像は高さが約一六三センチで、わずかに腰をひねり、右手に筆、左手に巻子をもち、眉間に皺を寄せて前方を眺めている。何より眼光が凄まじく、それがまた抜群にいい。この表情は一度見たら忘れられないと誰もが思うのではないか。写真家・入江泰吉は、この広目天のするどい目をレンズ越しに直視した瞬間、思わず全身が震えたという。さもありなん、である。
 四天王は、どれも邪鬼を足の下に踏みつけている。どれもたいした踏まれようで、見ているだけでこちらが苦しくなってしまう。とくに広目天の邪鬼が興味深い。足の運びが女性っぽいのである。邪鬼に性別があるかどうはわからないが、あるとしたらこの邪鬼は女性だろう。
「よその四天王とは違うでしょう」
 と、先ほどのお坊さんがまた話しかけてきた。まるで自分の息子を自慢するかのような話っぷりに何となくおかしみを覚えたが、たしかに東大寺にとってこれらの像を所有していることは誇りだろう。

 私たちは戒壇院から大仏殿へと向かった。大仏殿に西側から歩いていくのは、私にとっては初めての経験だったかもしれない。新鮮な気分がした。
 回廊から中へ入り、目の前の大仏殿を眺めた。久しぶりに見るそれは、いつもと少しも変わらぬ様子で、堂々としていた。しかし、この大きさはどうだろう。我々は何度見ても驚くしかない。
 中門から写真を撮ると、そのまま大仏殿へと歩いていった。私はこのとき、いつもその大きさを実感すべく、屋根のあたりを凝視しながら歩く。だんだんに近づいてくるそれは、ますます迫力を帯びてきて、私は感嘆の声をあげずにはいられなくなる。
 この大仏殿(国宝)は現存する世界最大の木造建築物だが、宝永六年(一七〇九)に再建されたもので、正面七間、奥行七間、寄棟造の建物である。日本の寺院は江戸時代に手が加わっているものがほとんどだが、江戸建築はきらびやかさを好むあまり、寺のイメージを著しく損なう場合も少なくない。ところが、東大寺のそれはたしかに江戸様式だが、材木の色の様子や立地条件の影響からか、そういういやらしさは感じられない。
「奈良の大仏」
 は、正式には、
「毘盧遮那仏」(国宝)
 という。梵語名はヴァイローチャナ・ブッダといい、太陽の光の仏陀を意味する。『華厳経』によると、宇宙のすべてのものは光のはたらきによってたがいに関係し合っており、その宇宙全体を包括するのが毘盧遮那仏だという。
 聖武天皇が大仏造立の詔を発したのは天平十五年(七四三)のことで、はじめは当時の都だった紫香楽に造立するつもりだった。ところが紫香楽では、数日おきに山火事や地震が続発したため、聖武天皇は翌年、都を平城京に戻し、そこで工事をやり直すことにした。
 そのとき、聖武天皇は大勧進職の役目を行基という僧に与えた。行基は七十六歳の高齢だったが、精力的に寄付を集めた。
 実際に大仏の鋳造が始まったのは天平十九年(七四七)のことで、天平勝宝元年(七四九)十月に終了したが、行基はその年の二月に死去しており、大仏の完成をその目で見ることはできなかった。
 鋳造が終わると、今度は鍍金である。鋳造には大量の銅と錫を用いたが、鍍金には金と水銀がいる。中でも当時は金の確保が困難だったが、折よく陸奥国で金が発見されるという幸運に恵まれた。
 鍍金作業と並行し、大仏殿の建立も行わた。大仏の開眼供養が行われたのは、天平勝宝四年(七五二)四月九日のことで、開眼導師はインド僧の菩提僊那だった。
 大仏は、その座高が約一四、九メートルもある。私はこの大仏を、小学六年生の修学旅行ではじめて見たが、さすがにそのときの衝撃はかなりのものだった。一緒にいた友達が口をぽかんと開けていたのを覚えている。
 大仏の裏側へ回り込むと、そこには創建当時の東大寺の模型がある。驚くのは、大仏殿の東西にそびえ立つ七重塔の存在である。創建当時、東大寺は巨大な七重塔を二塔ももっていた。高さは何と百メートルを超えるという。この事実だけでも、当時の東大寺の威容が想像できる。東大寺とは、我々の想像をはるかに超える大寺だったらしい。(つづく)