奈 良 散 歩 C

  
              二月堂

 いよいよ二月堂へ行ってみることにした。私たちが最も見たい、
「お松明」
 は十九時より始まるから、まだ三時間ほど時間はあるが、とりあえず下見をしておこうというのである。
 二月堂への斜面を上っていく(私はこの界隈の斜面の様子も好きである。東大寺ほど境内に山の斜面をうまく取り入れた寺院もないだろう)。果たして観光客はどれほどいるのだろうと気になりながら、二月堂へと出た。
 二月堂は、夕陽を浴びて美しかった。廻縁の下には柵がこしらえてあり、そのあたりにはすでに観光客が座って場所を確保している。その数、百人あまりだろう。報道陣はすでにスタンバイができているようだったが、三時間前だけに動きは少ない。
 私たちはとりあえず二月堂を参ることにした。現存の二月堂の建物は、やはり江戸時代に再建されたものである。もともとの天平様式の建物は、何と寛文七年(一六六七)、お水取りの火がもとで焼失したらしいが、その年のうちに四代将軍・家綱によって再建された。
 石段をゆっくりと上っていく。人々の出入りは、さすがにいつもより多い。二月堂をぐるりと囲んでいる廻縁、つまりお松明が通る場所も、今は観光客がたむろし、そこから西に向けてさかんに写真を撮っている。皆、夕陽を浴び、それがまた心地よさそうに見える。加えて、お松明を間近にひかえ、何となく緊張した雰囲気もある。

 私たちは一度、二月堂を離れ、先に腹ごしらえをすることにした。二月堂周辺の食堂はすでに満員だったため、南大門の方まで歩き、門前にある食堂へと入った。
 食事がすむと、しばし自由時間にしようということになった。私は、南大門の東にある奈良県新公会堂の付近の芝生を、東に若草山を望みながら歩くことにした。若草山は、夕陽を浴びて朱に染まっている。その光景を眺めながら、鮮やかな緑の芝生の上をゆっくりと歩く。春の夕暮れを全身に感じながら、どこまでもおだやかな気分になった。

 十分ほどして携帯電話が鳴った。市川さんだった。
「食堂の人に聞いたら、少しでも早く二月堂に行った方がいいって。すぐに行こう。南大門に集合ね」
 と急いた様子である。なるほど、たしかにお水取りの直前にこんなところを悠長に歩いている場合ではないかもしれないと思い直し、私は南大門へと走った。すでに市川さんと漆原さんは集合していた。小林先生はあとから合流するという。
 市川さんは高校時代、サッカー部で正キーパーだったくらいのすぐれた運動神経のもちぬしで、元来、行動的な質なのかもしれず、このときも二月堂に向け、猛然と走り始めた。法隆寺などではおとなしかったのに、その変わりようが何とも滑稽で、漆原さんと顔を見合わせ、思わず笑ってしまった。ただ、市川さんが走りたくなるのも無理はなく、周りの人も皆、二月堂に向け、足早になっている。
 二月堂への道が、混雑している。
「これはもしや、出遅れたのか」
 と思いながら、私たちは数時間前にも訪れた二月堂前の広場に立った。人が、いっぱいだった。
 しかし、幸いにも広場にはまだスペースが残っていた。人の垣根をかき分けるようにして、私たちは少しでもお松明が見やすい場所へと移動していった。ここで小林先生とも無事に合流した。
「お水取り」
 というのは、東大寺の僧侶が二月堂の本尊・十一面観音像に自他の罪と汚れを懺悔し、国家の安泰と衆生の豊楽を祈る法要である。大仏の開眼供養が行われた天平勝宝四年(七五二)に東大寺の実忠がはじめたとされ、以来千年以上もの間、一年も休むことなく、しかも前例と違うこともなく、続けられてきた。三月一日から十四日間行われ、この間はお松明も毎晩あげられる。私たちは今日、そのお松明を見に来たのである。
 時刻は十八時を過ぎ、人も集まり切った感じがした。あとは十九時にはじまるお松明の登場を待つばかりである。
 ふと見上げると、西の空にきれいに月が出ていた。三日月だった。あれが二月堂の背景として東の空に出ればいいのにと思いつつ、静かにそのときを待っている。
「みんな、春を待ってるんだね」
 と小林先生がいった。そう、みんなは春を待っているのである。春というのは、ほうっておいても来るものだが、それを待ち切れず出掛けてきてしまったのが二月堂に集まった人々であるような気がした。
 十九時を数分後に控え、放送が流れた。周囲の照明が一斉に消えた。すると、廻縁へと上る向かって左手の石段を、大きな火をつけた松明が上っていった。人々の期待感は最高潮に達した。
 その瞬間、私の眼前に無数の青く小さな光がぱっと広がった。観光客のカメラや携帯電話の液晶画面の光だった。まるでそれは、真っ暗な海に浮かぶホタルイカの明かりのようだった。一見きれいではあるが、東大寺の境内には似つかわしくない気がした。しかし、そういう私もその明かりの一つだったから、文句はいえない。
 松明は、ゆっくりと石段を上がり切り、廻縁の縁にとどまった。
 しばらくして、その松明は猛然と走り出した。火の粉がぱっと舞った。人々は、声をそろえて歓声をあげた。
 そして、松明は廻縁のもう一方の縁で急に止まり、その瞬間、いっそう多くの火の粉が舞った。観客がどっと沸いた。
 この松明は、約三十分の間に十本があがった。この松明をもつのは練行衆なのだが、その松明の運び方にも個性があるようで、ある人はゆっくりと松明を運び、ある人はあっという間に廻縁を駆け抜けた。そのたびに人々は歓声をあげた。春の訪れを喜ぶ、人々の声であった。
 それにしても、東大寺は偉大である。このような行事を千年以上も続けてきたことが、である。

  この寺(東大寺)の僧の顔つきは、いつも思うのだ
  が、世間の僧にくらべて数段いい。それもダイブツに
  食わせてもらっているおかげだ、という人もいる。し
  かし人間の人相というのは食わせてもらえばよくな
  るというものではない。天平以来の伝統がどこか生
  きているためであり、その伝統のしんというのは、千
  数百年も修二会をくりかえしているというところにあ
  るかと思える。
            (司馬遼太郎著『街道を行く』より)

 東大寺を訪れたとき、私たちは司馬さんのいう、
「伝統のしん」
 というものを、もっと感じるべきなのかもしれない。また、そう感じる感性を私はもっていたいと思った。

 お松明が終わり、私たちは二月堂の裏参道を下りて帰った。この参道も実に雰囲気のいい参道で、昼間だったらさぞかしいい写真が撮れただろう。
 参道を歩く人々の足取りは早かった。寒いのである。しかし、その寒ささえ人々にとっては風情だった。
 相変わらず、月は大仏殿の屋根の上に見えている。その月は、悲しくなるほどに美しかった。
 この月の美しさを、私は一生忘れないだろうと思った。(完)