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春の東京散歩@
不忍池
西條八十
東京にある上野恩賜公園の桜は、満開の際には見事というほかない。
JR山手線を上野駅で降り、駅の外へ出ると、正面は高台になっている。階段を上っていくと、そこにはかの有名な西郷隆盛の銅像があり、さらに奥へ行くと、国立博物館の方角へ向かってソメイヨシノの並木が続いている。満開時には、その桜の一枝ずつに桜の花びらがはちきれんばかりに開き、それらが幾重にも重なって、桃色一色の風景をかたちづくる。それはまるで立体絵のようであり、その立体感は人々を圧倒する。
ソメイヨシノの並木が続く高台を、西に向かって下りてみると、そこには池がある。
「不忍池」
である。池にはさまざまなかたちのボートが浮かんでいる。
私は今回、春の東京を散歩してみようと思ったのだが、その出発点は東京でもっとも春を感じる場所にしようと考えた。それが上野公園と不忍池である。
私は上野公園に来ると、必ず不忍池の中に浮かぶようにある弁財天に参る。その弁財天の先には、池の中央を細い土手が左右にわかれてのびている。土手には見事に桜並木が続いている。ここで左に行くのも常で、この土手の桜の間を歩く瞬間、私は心から春を感じることができる。桜並木の様子はもちろんだが、池の色までやさしくて心地よい。池には、カモが列をなして泳いでいく。その様子がとてもかわいらしく、観光客が思わずカメラを向けている。
そして、ふと振り返ってみる。上野の森が見える。ところどころ淡い色をつけ、それは桃色だったり黄緑だったりするのだが、それがカンヴァスに春色を吹きつけたように見え、うれしくなってしまう。中央に弁財天の頭が見え、その背後には上野精養軒の白く四角い建物がある。さらに左手には、上野東照宮の五重塔も小さく見えている。
土手を気分よく歩きながら、ある人物を思い浮かべた。
その人の名は、西條八十(一八九二〜一九七〇)という。ペンネームのようだが、本名である。「苦」を示す「九」を抜いた人生を、との思いで親が名づけたという。詩人であり、フランス文学者でもある。
八十は明治二十五年(一八九二)、東京・牛込(今の新宿)に生まれた。八十は生まれもっての秀才で、十七歳のときには早稲田大学英文科に入学したが、授業が退屈との理由でわずか二ヶ月で中退した。しかし、二年後には再入学している。面白いのは、このとき東京帝国大学国文科も受験し、合格していることで、よって、八十は早稲田大学へ帝大の帽子をかぶって平気で通学した。
彼には文学的才能もあった。早稲田大学在学時には、山田耕筰らと雑誌『未来』を創刊している。大正四年(一九一五)、早稲田大学卒業。
卒業後、すぐに結婚した彼は、なぜか文学を捨てた。店を出したり株に手を出したりしたが、それらはことごとく失敗する。彼にとってこのときほど苦境の時期はなかった。
しばらくして、彼は雑誌の編集の仕事をするようになった。
同じ頃、鈴木三重吉が児童文芸誌『赤い鳥』に詩を書いてくれと依頼に訪れた。当時、『赤い鳥』に掲載されることはステータスであり、同人に島崎藤村・芥川龍之介・泉鏡花・北原白秋らがいた。
以来、詩を発表するようになり、大正八年(一九一九)に自費出版した第一詩集「砂金」はベストセラーになった。大正十年(一九二一)には母校・早稲田大学の講師となり、以後、同校の要職に就いた。
戦後は、日本詩人クラブや日本詩人連盟を創立、日本音楽著作権協会の会長も務めるなど、重責を担った。余談だが、藤山一郎の「青い山脈」(昭和二十四年)を作詞したのは、八十である。
八十といえば、「かなりや」の詩がある。
唄を忘れた金糸雀は後の山に棄てましょか
いえ、いえ、それはなりませぬ
唄を忘れた金糸雀は背戸の小薮に埋けましょか
いえ、いえ、それはなりませぬ
唄を忘れた金糸雀は柳の鞭でぶちましょか
いえ、いえ、それはかわいそう
唄を忘れた金糸雀は象牙の船に銀の櫂
月夜の海に浮べれば
忘れた唄をおもいだす
童謡としてあまりにも有名だが、この金糸雀こそ、苦境だった頃の八十そのものだった。
私はその頃、家族を神田の家に残して、ひとり不忍
池のほとりの上野倶楽部といふ、だいぶ古くなった
アパートメント・ハウスの四階でくらしてゐた……お
もへばその頃の私自身こそ、実に「唄を忘れた金糸
雀」でなくて何であったらう! 永い間私は自分の真
実に生き行くべき途を外れ、徒らに岐路のみさまよ
ひ歩いてゐた……心の底にふと自身が歌を忘れた
詩人であることを思ひ出すと、いつもたまらず寂しか
った。
(西條八十「現代童謡講座」より)
八十は、文学を捨てた一時期、「真実に生き行くべき途」を行かず、脇道を行った。商売や株などに手を染めた彼の生き方は、自身にとって真実の生き方ではなかった。その苦悩の中、不忍池をふらふら歩き、生まれたのがこの詩だった。
しかし、歳月はこの哀れな金糸雀に昔の歌を思い出させた。彼は一詩人として再生した。
今日でも私はこの謡を読むと、当時の自分の切迫
緊張した心持が偲ばれて涙なしにはゐられない。
さうしてその頃の悲壮な、板挟みとなった生活感動
が、いつ知らず滲み出てこの謡を生んだのであるこ
とを泌々感ぜずにはゐられない。
(西條八十「現代童謡講座」より)
私は不忍池を歩くと、どうしても苦悩に満ちた表情で歩く八十の後ろ姿を想像してしまう。そして、その苦悩を思い浮かべれば浮かべるほど、目の前の池に見られる現実ののどかさが思われる。八十の頃も、不忍池は現在のようにやさしい表情をしていたのだろうか。
上野の森には、みるみる人が集まっている。池のボートも数が増してきた。今日は終日、快晴のようである。きっと今春最高の人出になることだろう。(つづく)
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