古寺にて観月



「中秋の名月」を鑑賞するという習慣は、中国で起こりました。唐の時代以降さかんに行われ、それについての詩文も中国には数多く存在します。
 そして、日本はどうかといいますと、平安時代の延喜九年(九〇九)、醍醐天皇が月見の宴を開いたのが記録上、最初の例であります。その後、貴族の社会では月を見ながら詩歌や管弦の催しを開くようになりました。民間で月見がさかんになったのは江戸時代からで、農作物を供えて月に感謝の意を表するようになりました。
 中秋の名月とは、旧暦八月十五日の月のことをいいますね。現在の九月下旬にあたります。実は、私は今まで、この中秋の名月をしっかりと見た記憶がなかったんですね。きっと小学生の頃は、母と一緒に眺めたりしていたんでしょうが、記憶にはないんです。
 先日、友人と話していましたら、中秋の名月の話になりました。その人は毎年見るっていうんです。「是非、今年は君も見なさい」というわけです。聞くと、今年の名月は九月十八日の日曜日だという。どうせならよりよい月を見たいと思い、早速、全国の観月の行事を調べてみると、唐招提寺で「観月讃仏会」というものがある。唐招提寺といえば、鑑真和上が開山した名寺であります。その和上の坐像を奉安する御影堂の庭園が特別に開放され、和上とともに名月を愛でることができるといいます。そこで、今回はここに決めたわけです。
 奈良には車で出掛けました。午前中は龍王山に登り、午後からは高取城跡を見に行きました。この高取城というのもすごい城でしたので、機会があったらまた語りたいと思います。
 デパートで少し早い夕食を済ませ、急いで唐招提寺に向かいました。途中、道が渋滞して難儀しましたが、やっとの思いで唐招提寺に着きました。月はもうとっくに出ていましたね。

 唐招提寺は、奈良市五条町に建つ律宗の総本山です。創建は七五九年(天平宝字三)、開山は鑑真和上であります。
 鑑真が日本の土を踏んだのは、七五三年(天平勝宝五)十二月でした。鑑真ほど来日に困難を極めた外国人も稀ですね。彼は六八八年、唐の時代の中国、揚州で生まれました。十四歳で出家し、二十一歳には正式な僧となっています。以後、律宗を極め、四十代半ばには華中・華南で彼ほど戒律にすぐれた人物はいないといわれるまでになりました。
 同じ頃、日本の仏教界には困難が持ち上がっていました。授戒(正式に僧の資格を与えること)のシステムがまったく確立していなかったんですね。その現状を打破すべく、興福寺の僧だった栄叡・普照の二人が遣唐船で入唐し、それから九年後、やっとの思いで律宗の鑑真と面会するわけです。詳細は井上靖の『天平の甍』に詳しいので、そちらを是非読んでいただきたいんですが、二人は鑑真に授戒僧の派遣を懇請したんです。最初、鑑真は弟子たちに「誰か行くものはないか」と尋ねましたが、このときの反応は「衆は黙然として、一の応える者無し」(『唐大和上東征伝』より)という状況でした。そこで鑑真の述べた言葉が、

 何ぞ身命を惜しまんや。諸人行かざれば、我即ち去くのみ
                  (『唐大和上東征伝』より)

 でした。鑑真は自らその要請を受けたんですね。そして、その瞬間から鑑真の困難は始まったんです。彼はそれから五度も日本渡航に失敗します。その間、不幸にも失明し、栄叡にも先立たれています。しかし、彼は最後まであきらめませんでした。六度目の挑戦で、ついに鹿児島県に上陸しました。このとき六十六歳。最初の渡航失敗が五十六歳のときでしたから、約十年かかっての悲願達成でした。
 彼はその後、平城京に入って聖武上皇に授戒したり、東大寺に戒壇院をつくったりしました。そして、七十二歳のとき、唐招提寺を建立しました。

 唐招提寺は夜にもかかわらず、人がいっぱいでありました。南大門から境内へ入りますと、本来なら正面に金堂が見えるはずです。しかし、現在、この金堂は解体修理中(二〇〇九年竣工予定)でありまして、見ることはかないませんでした。私は暗く細い道を、人の流れに沿って歩きました。行く先は御影堂です。ここに和上坐像が安置されているんです。入り口で特別料金を払いまして、中へ入って行きました。砂利を踏む音が大変心地よかったですね。
 入った先は庭園になっていまして、人がいっぱいでした。みんな東の空を見上げていました。そちらの方角に月が出ているんです。でも、私はまず和上坐像が気になって仕方がありませんでした。御影堂は、庭に向かって全面開け放たれていました。中央に厨子が見え、その周りには全面青味がかった襖絵が見えました。この襖絵が実に素晴らしかったですね。東山魁夷制作の、山や海を描いた障壁画でありました。この美しい青さが実に幽玄の世界を醸し出しておりまして、それを見て私は思わず立ちすくんでしまいました。古寺に現代画の大家の絵があるというのもなかなかのものだと思いました。
 しかし、肝心の厨子が閉じていたんです。その中に坐像が安置されているはずなんですが、話によるとその姿を拝めるのは、六月の開山忌の三日間のみだそうです。とても残念な気がしましたが、こればかりはどうしようもないですね。
 さて、いよいよ月を見ることにしました。大きな満月が白く輝き、唐招提寺の唐風の屋根の上に出ておりました。秋の始まりを感じさせる大気の中、その月はくっきりと姿を現していました。雲などの陰りはまったくありません。まさしく「中秋の名月」にふさわしい、文句のつけようのない名月でありました。
 私は歴史の舞台を訪れる際、いつも当時の姿を想像しては、「当時の人は一体何を思っただろうか」ということを考えます。このときもそうでした。こんな月であれば、いにしえの人もさぞかし感嘆の声を上げながら、夜空をいつまでも見上げていたんだろうと思いますね。時空を越えた一体感というんですかね、そういうものを感じる瞬間が私は好きですね。
 約一時間の観月でしたが、私には極めて貴重な時間でした。
 余談ですが、その日から毎晩、私は月を見ているんです。でも、唐招提寺で見たのと同じ月であるはずなのに、どうしてもそうは思えないんですね。不思議な気がします。