春の東京散歩A

  
              三四郎池

三四郎池

 上野は台東区に区分されるが、不忍池のすぐ西はすでに文京区である。
「文の京」
 と書くだけあり、その界隈は文学の香りに満ちている。
 不忍池から、東京大学附属病院に向かう上り坂を上ってみた。この坂がすでに文学にちなんでいる。
「無縁坂」
 という。この坂を有名にしたのは、森鴎外の『雁』という作品で、主人公の医学生・岡田青年が日課のようにこの坂を下り、散歩した。ちなみに、この無縁坂の南側に古いレンガづくりの塀が続いているが、これは旧岩崎邸(三菱財閥の岩崎家の本邸)の塀であり、重要文化財である。
 坂を上りきり、附属病院の敷地をかすめるようにさらに西へ行くと、東京大学構内へと突き当たる。この大学の西側、今の地名でいえば本郷四〜五丁目あたり、あるいは西片あたりは、明治期、文人の一大文化村となっていた。
 そこに住んでいた顔ぶれがすごい。石川啄木・小泉八雲・坪内逍遙・正岡子規・森鴎外・宮沢賢治・樋口一葉・夏目漱石……数え上げたらきりがない。
 ここでは、そのひとりひとりを取り上げない。取り上げたいのは、夏目漱石の『三四郎』である。

『三四郎』は、明治四十一年(一九〇八)九月から朝日新聞に連載された長編小説である。
 私はこれを大学生の時分に読んだ。読んで、妙に共感した。
 当時、私には好きな女性があった。勝手に、
「別嬪サン」
 とあだ名をつけて呼んでいた。同じ大学に通う学生だった。その女性とは毎日、食堂で出会った。黒い髪が長く、やや面長で、肌は健康的な狐色をしていた。目はきりっとしていて、美人だったと思う。口をきいたことは一、二度しかない。それも挨拶程度である。
 私は『三四郎』を読んで、美禰子とこの女性が重なって仕方がなかった。別段似ているわけではないし、私がなぶられている訳でもないのだが、要するに『三四郎』の世界にのせられたのである。
 しかし、あるとき、友人が大学広報誌を持って食堂にやって来た。この写真を見てみろ、という。
 そこには、「別嬪サン」の顔写真が載っていた。名前を見て、驚いた。日本人の名前ではなかった。彼女は、台湾からの留学生だった。私にはそれ以上、努力しようとする勇気がなかった。

『三四郎』は、三四郎には気の毒だが、そのなぶられぶりがとてもよい。とくに最後、三四郎が、
「迷羊」
 と唱える場面など、心臓に思いのほか心地よく矢が刺さったような感覚が残り、その余韻をしばらく噛みしめたいと思わせる。
 美禰子は頭から三四郎と結婚することなど考えていなかった。美禰子はそういう女性だったのであり、それは、
「無意識の偽善」
 とでもいうべきだろう。

『三四郎』は、
「明治」
 という気分で書かれている。それが私たち現代人にとっては新鮮であり、心地よいのだが、その世界でさらに浮遊してみたいと思うのなら、東京大学を訪れるのがよい。東大には、
「三四郎池」
 がある。
 本郷三丁目の交差点から北上すると、右手に東京大学が見えてくる。交差点から三百メートル地点に、
「赤門」
 がある。
 東京大学の敷地は江戸時代、加賀藩邸だったことは有名である。
「加賀百万石」
 というくらいだから、その藩邸の規模はかなりのものだった。
 たとえば、幕末に上野では戦争があった。幕府側の残滓というべき彰義隊と、大村益次郎率いる官軍が激突した。彰義隊は、徳川家の菩提寺だった寛永寺に立てこもった。広大な上野公園だが、実はここはかつて、すべて寛永寺の境内だった。上野の森全体が寛永寺だったといってよい。つまり、寛永寺は不忍池から見て高台にあった。
 それに対抗すべく、益次郎が考えた方法は、加賀藩邸に、
「アームストロング砲」
 を備えつけるということだった。加賀藩邸も本郷台地という高台にあったため、高台から高台に向け、橋を渡すようにアームストロング砲を撃とうというわけである。その橋の下には、不忍池がある。
 当時、アームストロング砲ほど射程の長い砲は世界になかった。それほどの大砲の威力はさすがに抜群で、結果的に彰義隊は壊滅した。
 東大の敷地はそれほどの高台だったのであり、当時としては山の手の一等地だった。
 赤門は、その加賀藩邸の名残である。第十一代将軍・家斉の頃、前田家が将軍家の娘婿に選ばれたことがあった。将軍家から降嫁する場合、降嫁先に門が新造される。その門は慣例として朱に塗られた。それがこの赤門である。
 赤門を通り抜け、大学構内に入ってみる。三四郎も通った旧東京帝国大学の構内にはじめて足を踏み入れたという感慨が大いにわいた。
 左手に図書館があり、その先は左右に道がわかれている。三四郎池は何となく左手にありそうだったので、左に曲がってみる。するとすぐ右手に林が見えた。池はこの奥に隠れているのだろう。
 林の中を下りていく天然石の石段があった。それをゆっくり下りていく。数人の人とすれ違ったが、なぜか皆、女性だった。
 目の前がぱっと開けた。そこには思ったよりも大きな池が広がっていた。まさしく、三四郎池だった。
前田家は屋敷に育徳園という庭園をつくった。心字池とよばれる池も掘った。それが三四郎池である。
 三四郎池は、春のやさしい陽を浴び、おだやかにたたずんでいた。私はそのぐるりを廻り、三四郎がはじめて美禰子と出会ったとき、彼女が立っていた場所を何となく探してしてみたくなった。
 池の畔にベンチが一つあり、年配の男性が何やら読んでいる。ちらと見ると、その文章は英文だった。東大の教授なのかもしれない。
 池を南の方から左回りで歩きはじめ、ゆっくりと北の方まで歩いた。考えていることは、どの方角から見ると一番素敵な風景になるかということであり、美禰子はどこに現れたのか、ということである。

  ふと目を上げると、左手の丘の上に女が二人立って
  いる。女のすぐ下が池で、向こう側が高い崖の木立
  で、その後がはでな赤煉瓦のゴシック風の建築であ
  る。そうして落ちかかった日が、すべての向こうから
  横に光をとおしてくる。女はこの夕日に向いて立って
  いた。
                  (夏目漱石『三四郎』より)

 北側は少し開けたような感じになっていた。小さな子供が二人(おそらく兄妹だろう)、池に向かって芦を投げ出している。釣りの真似事をしているのだろう。
 私は子供達の後ろに立ち、池を眺めてみた。何となくそこからの眺めが、かつて庭園だったことをもっとも感じさせる風景だった。
 池の中央に島がある。正面には林が広がっている。その林の群れが少々小高い。その林を下りてきた人がいた。それはつまり、私が先刻下りた石段と同じ石段を下りてきた人だった。これもまた女性だった。私が探していたのはこの風景かな、と思った。

 東京大学には、
「安田講堂」
 もある。正式には、東京大学大講堂という。大正十四年(一九二五)に竣工した建物で、安田財閥の創始者・安田善次郎の寄付によって建設されたためにその名がある。東京大学建築学科の建築家・内田祥三(のちの総長)とその弟子・岸田日出刀が設計した。昭和四十三年(一九六八)の東大闘争では、全学共闘会議によって占拠されたが、今の講堂はその影を少しも見せずにいる。とにかく重厚なつくりで、東大の威容を示すかのようなレンガづくりである。
 講堂の前に芝生があって、東大生らしき十名ほどが騒いでいる。三四郎の頃に、このような輩はいなかっただろう。講堂の横には桜がきれいに咲いている。なるほど、安田講堂に桜というのも実に合致するものである。
 私は三四郎になったつもりで、日本の最高学府たる場所を歩いている。講堂から東へ、附属病院に向かって下っていく。やはりここでも、東大はかなりの高台にあったことが歩きながら実感できた。(つづく)