春の東京散歩C

  
              九段の夜桜

靖國の夜桜

 上野公園に別れを告げ、
「アメヤ横丁」
 で夕食をとることにした。れんこんを食べさせる店があり、そこへ上がった。さすがにこの夜はしたたか酔いたい気分になり、ビールと梅酒をたしなんだ。私は元来、酒に強い方でない。いささか飲み過ぎた気がしたが、桜が満開の東京の夜では、飲み過ぎても仕方がない。
 飲みながら、夜桜を見るにはどこがよいかと考えたが、まだ江戸城に近づいていないことに気がついた。私は、江戸城の桜を見に行くことにした。

 地下鉄で九段下に下りた。私は、九段下がことのほか好きである。地下鉄の駅を上がりきると、そこは九段下の交差点である。九段坂がある。すごい人出である。その人の流れにまぎれ、九段坂を上っていった。
 左手に江戸城の田安門が見えてきた。田安門の前の桜も、見事に咲いている。よく見ると、ここの桜は低い位置に咲いており、下を通った人は、まるで頭上を桜の傘で覆われたような気分になるかもしれない。
 さらに坂を上ると、そこには人々が行列をなしていた。どうやら九段坂から千鳥ヶ淵へと続く堀ぞいの道を行く行列らしかった。たしかにそこには桜並木が続く。
 私は一瞬迷ったが、行列には参加しないことにした。歩道橋を渡り、道の反対側に渡った。そこは靖國神社の大鳥居の前である。靖國神社の境内もすごい人出である。屋台がずらっと並び、その間を人が大勢行き来している。
 私は、靖國神社の参道にある大村益次郎像に会いに行くことにした。

 司馬遼太郎に『花神』という作品がある。主人公は、大村益次郎こと村田蔵六(一八二四〜一八六九)である。
 蔵六は文政七年(一八二四)年、長州・鋳銭司村の村医者の息子に生まれた。彼の人生の転機は、医学を志すべく緒方洪庵の、
「適塾」
 の門を叩いたところにある。そこで蘭語をよく学んだ。
 蘭語の知識だけなら師・洪庵をもしのぐといわれるようになった蔵六は、一旦は故郷の鋳銭司村に帰るものの、その語学力を宇和島藩に見出され、召し抱えられた。
 幕府にも招かれた。九段坂にあった蕃書調所で教授方手伝などを務めたりした。従事したのは、蘭語で書かれた書物の翻訳とその内容の教授である。そして数年後、彼は再び故郷の長州に帰り、ついに長州藩に取り立てられた。長州の地で幕府軍と戦ったいわゆる、
「四境戦争」
 では、全作戦を指揮して長州を勝利に導き、続く戊辰戦争では、官軍を指揮して上野の彰義隊を討伐した。すべて完勝だったといってよい。
 こられの軍功により、蔵六は明治政府で初代兵部大輔に就任し、徴兵令構想を中心とした軍政改革に取り組もうとした。
 蔵六が歴史の表舞台に登場する期間は短かった。現代においても、坂本竜馬や西郷隆盛に比べ、知名度は圧倒的に低い。しかし、明治維新という革命において彼の存在は極めて大きかった。その証拠に、蔵六は戊辰戦争の論功行賞で、西郷隆盛の二千石、木戸孝允・大久保利通の千八百石につぐ千五百石を受けている。その割に存在が地味なのは、竜馬のような「華」もなく、西郷のような「人望」もなく、ただひたすら「技術屋」として仕事に徹した面白味のなさからくるものだろう。
 ただ、逆にこの面白味のなさが魅力になっているともいえる。
 蔵六のすごさは、その想像力と直観力にある。彼は百姓の出であり、長州軍の司令官となったときも、実戦経験は皆無だった。それどころか終生、馬にさえ乗れなかった。そのため、長州軍では司令官が徒歩にて行軍するという異様な光景が展開された。すべての戦略は、オランダの兵法書を翻訳するときに身につけたものであり、それは机上の空論になる可能性もあった。それが空論にならなかったのが蔵六の天才たる所以であり、これは天分としかいいようがない。彼の想像力と直観力は、誰の追随をも許さないレベルだった。
 ところが、蔵六の人生は突然に終焉する。彼は明治二年(一八六九)年、京都三条の旅宿で不平士族に襲われ、二ヶ月後に死去した。享年四十六歳。

 蔵六(益次郎)の銅像は、参道の中央に堂々と立っていた。日本で最初の本格的な西洋式銅像だという。明治二十六年(一八九三)に門人らの努力で完成した像は、円筒形の基壇の上に立っている。高さは合わせて十二メートルにもなる。羽織袴を着け、左手に双眼鏡を持っているその姿は、上野戦争の際、江戸城富士見櫓から上野を凝視している様を表しているという。
「花神」
 とは、中国の言葉で花咲爺を意味する。
 全国に革命の花が咲き、明治維新が成るためには蔵六という「花神」の登場が必要だった、と司馬さんは書いている。その「花神」の像の下に、満開の桜が咲き乱れている。見方によっては、こんなにふさわしい風景はないかもしれない。(完)