天理・西ノ京・東大寺界隈 @

     
            天理本通商店街

天理のまち

 この旅で、久しぶりにN君に会った。N君も意外に忙しい人で、この一年、なかなか旅行に誘う機会がなかったのである。
 さて、ゴールデンウィーク中であり、いつもと違うところへ行こうかとも考えたが、心がそちらへ向かなかった。
「また奈良でもいいかな」
 と正直に告白すると、N君は、
「まあ、お好きなところへどうぞ」
 といった。反対したところでどうにもならないことを、この人はよく知っている。
 薬師寺など訪れたい場所はいくつもあったが、ふとあることを思いついた。
 私は年に数度、奈良へ赴くが、いつも自動車でゆく。自動車は、名阪国道を天理インターで下りるのが常である。
 天理といえば、石上神宮がある。
「山の辺の道」
 をゆくには欠かせない場所で、私も何度か訪れたし、そこから山の辺の道を南下し、三輪山の麓にある大神神社まで歩いたことも一度や二度ではない。
 しかし、天理には触れていない部分もある。
「天理教」
 がそれで、天理といえば真っ先に浮かぶのがそれであるはずなのに、
「新宗教」
 という性質上、信者でない者には近寄りがたい面が多分にある。とはいえ、それにまったく触れずに天理を語ることは不可能であり、個人的に気にはなっていた。

 N君が天理教をよく知っているのである。彼は岐阜の出身だが、高校卒業後、天理大学に進学した。要するに、彼にこそ天理を案内してもらおうと思いついたのである。
 N君は快諾してくれたが、私が率直に、
「今も信者さんなのかな」
 と尋ねると、彼は一瞬戸惑ったような顔になり、
「両親が信者だった、ということやね」
 といった。どうやら今はそういうことらしい。

 天理インターを下り、N君の案内で天理教教会の神殿を見に行くことにした。
 天理教を開いたのは、中山みき(一七九八〜一八八七)という人物である。一七九八年(寛政十)、大和国山辺郡三昧田(現・天理市三昧田町)に庄屋の娘として生まれ、十三歳で同郡の農家・中山家に嫁いだ。中山家は、村の子供たちの手まり歌にうたわれるほどの豪農だった。しかし、夫の善兵衛はみきの勤勉をよいことに、十六歳になったみきにその大所帯を任せ、自らは遊興に明け暮れた。
 そんなみきを次々と不幸が襲った。二人の子供が相次いで世を去り、長男は足を、夫は目を、自身は腰を患った。中山家は早速、山伏を招き、加持祈祷を行うことにし、みきが巫女の代わりを務めることになった。このときに神の啓示があったとされ、ここに天理教は誕生したといってよい。みきが四十一歳のときだった。
 以来、みきは病からの救済を求めて訪れる多くの人々に対し、治病を続けた。その中から神と人間に関する思想を生み出し、それは天理教の教義となった。
 天理教の歴史は、あらゆる宗教がそうであるように、弾圧の歴史といってよい。政府レベルでは、明治政府の官憲が一八七五年(明治八)に直接的な弾圧を行っている。みきを県庁へ出頭させ、取り調べをしたのである。以後、みきは世を去るまでに十七回にわたって拘留されている。一八九六年(明治二十九)には、内務省から秘密裡に天理教禁圧の訓令が出され、弾圧の波は最高潮に達した。
 政府が天理教を批判したのは、天理教の体質に反権力思想がはらまれていたのが大きな理由だろう。石川啄木の『赤痢』という小説にも天理教の記述があり、そこには、

  富めるも賤きも、真に四民平等の楽天地を作る。そ
  れが此教の第一の目的ぢや。
                   (石川啄木『赤痢』より)

 とある。啄木は天理教に共産主義的性格があるととらえているのであり、当時、その性格はそれだけで政府から弾圧される対象となった。
 また、この政府の動きに乗じ、新聞や雑誌などのジャーナリズムや既成宗教も天理教撲滅講演会などを開いたりした。

 天理教教会の神殿は、JR天理駅の東一キロのところにある。私たちは神殿の東側にある駐車場に車をとめ、神殿へと歩いていった。周囲はきれいに掃除が行き届いている。早朝より信者が掃き清めているのである。パンジーなどが植えられたプランターも並んでいる。N君によると、天理高校の夜間生が世話をしているという。
 天理教では、石上神宮がそうであるように、神殿が建つその土地自体を崇めている。天理教会の神殿は、その土地をどの方角からも拝めるように四方に向かって開かれていて、そのいずれの方角から拝んでもいいらしい。規模も大きく、たとえば西本願寺のそれよりもはるかに大きい。
 神殿の造りが面白い。天理教は、分類するなら教派神道というべきだろう。教団として独立した神道系宗派である。しかし、神殿の造りはどう見ても寺院に見える。それについてN君に質問してみたが、よく分からない、とのことだった。

 私たちは神殿前を通過し、神殿前から西へと続く、
「天理本通商店街」
 を歩いた。
 私はかつてこの商店街で買い物をしたことがある。高校一年生のとき、高校の研修旅行で山の辺の道を歩いた。夏休み真っ直中の、暑い日だった。
 当日、天理駅を降りた我々はやけに賑やかな駅前の様子に戸惑った。その日はちょうど高校野球の甲子園大会の決勝戦の日で、何と天理高校が決勝に進出していた(結局、天理高校は見事、優勝した)。駅前からは甲子園行きのバスが無料で出ていたので、
「このままバスに乗っちゃいましょうよ」
 と先生に真剣に具申し、叱られた記憶がある。駅前に接続する商店街には、街頭テレビも設置され、地元テレビ局も取材に来ていた。そのとき、商店街をぶらぶら歩いたのである。
 十六年ぶりの商店街には、食品や衣料関係の店の他、ハッピや書籍など、やはり天理教に関するものも多く並んでいた。商店街を往来する人々には、天理教のハッピを来た人が多いが、それはこの地にとっては極めて自然な風景である。
 商店街の様子を見ながら、天理教の街へのとけ込み具合を実感した気がした。私はここで新宗教の是非をとやかくいうつもりはない(それをいうのであれば、既成宗教をも同じ土俵に上げないといけない)。この日の私には、そのような議論など頭になく、ただひたすら十六年前が懐かしかったのと、宗教と共に生きる人々の様子が違和感なく私の目に飛び込んできただけのことであった。(つづく)