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天理・西ノ京・東大寺界隈 A
薬師寺西塔
薬師寺
今回、奈良を旅したかったのは、薬師寺に行きたかったからだといってよい。薬師寺の隣には唐招提寺があり、そちらには二度ほど行ったが、薬師寺は今回が初めてである。
薬師寺は平城宮跡の南西二キロのところにある。遠くからも塔がよく見えるので、車からも見つけやすい。
薬師寺は法相宗の寺である。そもそも建立のきっかけをつくったのは天武天皇で、六八〇年(天武九)、皇后の病気回復を願って藤原京に造営を開始したが、天武天皇は造営途中で死去してしまう。かわって皇后が持統天皇となり、夫の遺志を受け継ぐかたちで完成させた。
七一八年(養老二)、平城京への遷都にともない、薬師寺は現在の地へ移転した(以後、藤原京の薬師寺は本薬師寺とよばれるようになった)。その後、他の寺院と同様、度重なる火災に遭い、九七三年(天延元)には金堂と両塔以外を、一五二八年(享禄元)には東塔と東堂院以外を焼失した。
江戸時代に入るとその荒廃ぶりはさらにひどくなり、本尊の薬師三尊像さえ雨漏りのする仮金堂に四百年以上も置かれていた。
転機が訪れたのは戦後で、新しく管主となった高田好胤師が金堂の復興を思い立ち、実現しようとした。写経勧進によって一九七六年(昭和五十一)、金堂は再建された。その後も再建事業は続けられ、二〇〇三年(平成十五)までに西塔・中門・大講堂も再建された。これほど再建に力を入れている大寺も稀だろう。
南門より中へ入る。すぐに中門があり、それもくぐると目の前に素晴らしい光景が広がる。正面には金堂がどっしりと構え、右手に黒い東塔、左手に赤い西塔がそびえ立っている。
「東塔」(国宝)
は、無意識のうちに五重塔だと思っていたが、よく見ると六重である。しかし、正確には三重塔で、小さな屋根の方を、
「裳階」
といい、これらの大小のバランスがこの塔独特の美しさを醸し出している。かつて明治の人はその美しさを、
「凍れる音楽」
と称した。全体が黒くくすんで見えるのは法隆寺や興福寺の五重塔と同様であり、まぎれもなく白鳳年間の建築である。高さは三十四メートルある。実に見事な塔というほかない。
これと対称の位置にあるのが総檜造りで再建された、
「西塔」
である。
古寺の再建については賛否両論あると思うが、それについて私は以前に比べ寛容になった。たとえば、この西塔は色彩として朱を施しているが、創建当時の寺がこの色をしていたのであり、往時を思い起こすにはこういった再建も無意味とは思わない。この塔は再建後、二十五年を経ているが、数百年すれば独特のくすみも出てきて、木造である以上、おさまりは必ずよくなる。
それどころか、この再建に尽力した宮大工・西岡常一棟梁(故人)は、千年後を見すえて塔を再建したという。そのこだわりは細部にわたっており、工具も創建当時のものを再現して用い、檜材は遠く台湾まで探し求めた。
「あれ、こっちの方が土台が高いね」
と気づいたのはN君だった。たしかに西塔の基壇の方が東塔のそれよりかなり高い。私は、そうだね、と一言いっただけだったが、これがかなり鋭い指摘だったことをあとで知った。
西岡棟梁は千年後、塔が自らの重みで沈んでいくことを計算に入れ、基壇を東塔より八十センチも高く設定したという。宮大工の仕事の奥深さを垣間見た思いがした。
「金堂」
の大きさにも驚かされる。建物は大きいばかりがよいとは限らないが、ここまで大きいと人々は感嘆の声をあげずにはいられない。その威容は薬師寺の雅さの象徴であり、力の誇示でもあっただろう。
内部には、
「薬師三尊像」(国宝)
がある。中央が薬師如来坐像で、向かって右が日光菩薩立像、左が月光菩薩立像である。いずれも金銅仏で本来は金色に輝いていたというが、享禄の兵火で焼かれ、現在のような黒色に変色したという。ちなみに、薬師如来はまたの名を医王如来ともいい、病を平癒する仏として崇められてきた。
私は仏像を見るのが好きで、とくに興福寺の阿修羅や中宮寺の弥勒菩薩などはお気に入りだが、どうもこの薬師如来は好きになれなかった。その主な理由は、もしかしたらその黒光りする色にあったかもしれない。
金堂の背後にはこれまた再建の、
「大講堂」
がある。青空の下、これも朱色が目に鮮やかで、見ていて気分がよく、同時に都というもの華やかな様子が想像されて楽しかった。
ここまでを白鳳伽藍という。その北には玄奘三蔵院伽藍がある。すべてが新しい建物であり、建物自体に見るべきものはないが、壁画殿にある壁画だけは見事である。
「大唐西域壁画」
という作品で、平山郁夫画伯の手による。玄奘三蔵といえば『西遊記』の三蔵法師として子供さえ知っているが、その玄奘の著した『大唐西域記』(全十二巻)を壁画に表したのが平山画伯の壁画である。
玄奘(六〇〇〜六六四)についてである。玄奘は六〇〇年、河南省に生まれた。四人兄弟の末子だった。十三歳で出家し、二十三歳で蜀の成都で受戒した。
インドで興った仏教は当時も多くの人々によって翻訳されていたが、それらに疑問を感じた玄奘が真の仏法に出会うため、長安から天竺に向けて出発したのは二十八歳のときだった。鎖国の禁を犯すという密出国だった。蘭州までは同行する者もあったが、その先は一人で行った。
最大の難所はタクラマカン砂漠だった。隊を組んで行っても危険であるにもかかわらず、玄奘は一頭の馬とともに決死の覚悟で砂漠に入った。予想通り、道中は艱難辛苦を極めた。そのときにはいつも般若心経を読誦し、難をしのいだという。また、水不足のために脱水症状になったり、幻覚に見舞われたりもしたが、決して旅をあきらめなかった。
二年の年月を経てやっとインド入りした玄奘は、インド各地を精力的に巡礼し、名僧とよばれる人々に会い、教えを請うた。
結局、長安に戻ったのは日本でいう大化改新の年で、玄奘は四十五歳になっていた。そのとき、運ぶに馬二十二頭を要するほどの仏像・経典を持ち帰った。
ちなみに、薬師寺が玄奘を大切にするのは、法相宗の宗祖・慈恩大師が玄奘の弟子だったからである。
壁画は七場面、十三壁面より成っている。壁画の高さは二.二メートル、長さは総計四十九メートルにもなる大作である。長安の場面から始まり、嘉峪関・高昌国・ヒマラヤ山脈・バーミアン国・デカン高原を経て、最後はナーランダ国に到達している。最も心をひかれたのは、第二場面の「嘉峪関を行く」で、果てしなく続く砂漠の様子と、それをゆくラクダに乗った一行、そして、はるか彼方に続く山脈が一枚におさまっている。旅の行く末を考えると足がすくんでしまいそうな、そんな様子が見事に描かれている。
余談だが、私が古寺と現代画とが意外にマッチすることに気づいたのは、薬師寺のすぐ隣にある唐招提寺を訪れたときだった。
その日はちょうど中秋の名月で、唐招提寺では観月会が催されていた。唐招提寺の観月会は有名で、この日ばかりは御影堂が庭に向かって全面開け放たれていた。中央に厨子が見え、その周りには全面青味がかった襖絵が見えた。この襖絵が素晴らしかった。東山魁夷画伯の、山や海を描いた障壁画だった。何ともいえない青さが実に幽玄の世界を醸し出しており、それを見て私は思わず立ちすくんでしまった。そのときの感覚は今も忘れずにいる。
帰り際、トイレに行きたくなり、駐車場近くのトイレを拝借することにした。そこには殿方用の表示のかわりに、
「善男子」
と大きく書かれたプレートが貼ってあった。婦人用には、
「善女人」
とある。一種のユーモアだが、なるほど薬師寺かもしれないと思った。同じことを東大寺がしていたら、きっと大いに顰蹙である。寺風というものだろう。(つづく)
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