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天理・西ノ京・東大寺界隈 B
東大寺南大門
東大寺へ
薬師寺のあと、私たちは秋篠寺をめぐり、西ノ京をあとにした。
私には引力を感じる場所があって、それは奈良の東大寺界隈なのである。私にとって奈良をゆくことは、この引力にいかに抗うかが問題となる。
西ノ京を出て、早くもその引力に抵抗しきれなくなっている。そういったことをすべてお見通しなので、N君は何もいわずにいるのだが、目は笑っている。結局、軽蔑されるのを恐れつつ、奈良公園へと向かうことにした。当然ながら公園周辺は車が渋滞していたが、こういうときN君は、
「仕方ないさ。待てばいいだけだよ」
と、すましているから、運転手は救われる。
やっとの思いで県庁の駐車場に車をとめ、とりあえず奈良国立博物館をのぞいてみることにした。この日はどうやら東大寺所蔵の、
「木造俊乗上人(重源)坐像」(国宝)
を見ることができるらしい。
重源(一一二一〜一二〇六)は、浄土宗の僧だった。醍醐寺で真言を、法然に浄土教を学んだ。その後、三度入宋し、土木建築の技を修得したといわれる。東大寺再建のときには造東大寺勧進職に補され、諸国をめぐっては勧進に努めた。
博物館には、重源にまつわる資料が多く展示されていた。中でも新資料とよべるのは、東大寺南大門の金剛力士立像を昭和から平成にかけて修理したとき、像の内部から発見された銘文や納入品である。これらはすべて国宝に指定されたが、その中に、
「木造阿形像金剛杵銘」
というものがある。厚く削った木片に墨書で銘があるのだが、そこに、
「造東大寺大勧進大和尚南無阿弥陀仏」
の文字があった。この大和尚とは重源のことである。博物館にレプリカが置かれていたが、たしかにはっきりと読むことができた。
重源の坐像は、会場の中央にぽつんと置かれていた。N君が、
「あ、あそこにいらっしゃる」
と思わずいってしまったほど、その像はリアルだった。まるで生きているかのようである。写実の極致といってもいい。高さは八十三センチあり、体型は猫背で、老人だけに痩せている。顔には無数の皺が刻まれ、下まぶたはたるんでいるが、口だけはしっかり結んでいて、それが意志の強さを感じさせる。手には数珠を持っているが、その手は意外にたくましかったりもする。着ている衣も極めて写実的で、見ていて飽きない。
これは誰の作かと思ったが、残念ながらこの像には銘がない。しかし、いずれにしろ、
「慶派」
の作だという。
慶派という言葉を私は知らなかったが、鎌倉時代の仏師一派である。運慶の父・康慶に源を発し、一派にはもちろん運慶・快慶がいる。
運慶・快慶といえば、東大寺南大門の金剛力士立像であまりにも有名である。その立像を見ながら、慶派について考えるのも悪くないかもしれない。
東大寺の参道に出た。すぐそこに例の南大門が見えるのだが、N君が空腹に耐えかねたらしい。そういえばもうとうに正午を過ぎている。私たちは門前にある、
「東京庵本店」
に入った。私は二ヶ月前、東大寺の、
「お水取り」
を見に来たときも、夕方にこの店に入っている。そのとき、同行の人達とそろって食べたカツ丼がおいしかったので、また寄ってみたのである。
すぐそこに南大門があるのに、いまだ見ずにいるというのは、何となく気が急くが、同時に贅沢な気にもなってくる。ただ、何となく東大寺は夕暮れにめぐりたい気もしていた。N君と相談し、夕方まで春日大社方面を散策することにした。
私たちが志賀直哉邸・新薬師寺・春日大社をめぐり、若草山の麓まで出た頃には、すでに時刻は午後六時になろうとしていた。どうやら新薬師寺で長居をしすぎたらしい。
土産物店が立ち並ぶ若草山の入山口前を通り過ぎ、東大寺の東の界隈、二月堂あたりをめざして歩いた。結局、今回も引力に抗うことはできなかったのである。
砂利道を行く、その音と足の感触が心地よい。先には手向山八幡宮が見えてきた。それを行きすぎると、そこには、
「法華堂(三月堂)」(国宝)
がある。東大寺の中で最も古い御堂だという。創建は天平年間で、南半分のみ鎌倉時代に改築された。なるほど、そう知ってみれば、たしかに二つの建物が合体しているとわかるが、それらはまったく違和感なくおさまっている。
法華堂に夕陽があたっている。国内で、夕陽にあたる姿が最も似つかわしい建造物は、きっと二月堂と法華堂に違いない。その光景を目の当たりにし、私は素直に感動した。ところが、N君は先を急ごうとしている。
「二月堂」
の舞台に上がりたいらしい。
私は二ヶ月前、この二月堂でお水取りの松明を見た。みんなが春を待つ、その姿と心の持ちように心動かされ、松明の火が赤々と燃え、火の粉が落ちる様に一喜一憂した。あれから二ヶ月が経過し、季節は初夏を迎えようとしている。季節はたしかにめぐっている。
二月堂の舞台に上がると、全身がこれ以上ない穏やかな光に包まれた。夕陽を正面から受けるかたちになっている。いい時間に来たものだと、N君と顔を見合わせた。陽は少しずつ傾いているが、舞台の上にいる二十人ほどは夕陽に照らされたまま動こうとしない。おのおの、この贅沢な空間を静かに体感していたいのだろう。
夕陽の手前には、大仏殿の大きな屋根が見えている。屋根の上には、二つの鴟尾がきれいに輝いている。東大寺のいつもと変わらぬ光景である。
突然、下の方から大きな音が聞こえてきた。何かの演奏らしい。
よく聞くと、音は大仏殿あたりから聞こえてくる。演奏に合わせて歌声も聞こえてきた。よく知っている曲だった。
二月堂の僧が教えてくださったのだが、このあと、大仏殿前でコンサートがあるという。聖武天皇の千二百五十年忌と世界遺産事業を行っているユネスコの創設六十周年を記念したもので、近頃、再結成したゴダイゴが出演するという。今はそのリハーサルをしていたようである。
旅の最後にやっと、
「南大門」(国宝)
を見ることにした。六時半を過ぎたというのに、人の波が絶えない。その波は大方、大仏殿に向かっている。コンサートに行く人々なのだろう。その流れに逆行するように、私たちは南大門へと向かった。
南大門はライトアップされていて、大きな白い布が何本も垂らされていた。
南大門は入母屋造りの本瓦葺きで、高さは二十五メートル以上ある。重源による再建で、三度入宋した彼が移入した大仏様とよばれる様式を取り入れている。吹き抜け状の屋根裏には幾重にもかけた貫が露出し、そこにも独特の美しさが見られる。
さて、南大門の、
「金剛力士立像」(国宝)
である。東に立つのが口を閉じた、
「吽形」
であり、西が口を開けた、
「阿形」
である。大規模な保存修理が行われたのは、昭和六十三年から平成五年で、このとき、さまざまなことが知れた。一体につき三千を超す部材が使われていることもこのときにわかった。
材木は檜だが、周防国(山口県)の材木まで用いられている。当時、巨大な建物や仏像をつくるための大木は、奈良や京都ではもはや探せなかった。東大寺を復興しようとする重源にとって、巨大な材木の調達こそが最大の悩みの種だったといっていい。
力士像の制作は、一二〇三年(建仁三)七月二十四日に始まったと阿形像の内部に記されていたというが、それからわずか六十九日で二体は完成した。驚くべき仕事といえる。
気になるのは、その制作方法である。
阿吽の各像は、いずれも像の後頭部から体重のか
かる側の足もとまで、一辺約六〇センチの角材を心
柱のように立てる。つぎに、その中心材の左右と前
に、それより少し細い角材七本をそえて、貫で組み
付ける。横に踏みだす脚は、腰から斜め下に向かう
二本の角材で作る。これらが体の主要部である。
顔、胸、腹、背中や腰の表面に、幅二〇〜三〇セン
チ、厚さ二〇センチほどの材木を、主要部材の上に
ならべて張って、その表面を彫刻する。腕は、肩、
肘、手首で継ぎ、体の筋肉の隆起には、細かい材木
を張る。
(副島弘道『運慶』より)
とにかくこの立像はすごいとしかいいようがない。高さはそれぞれ約八.四メートル、重量は約六.六トンある。力強い写実性も文句のつけようがなく、とくに筋肉の質感・重量感には目を奪われる。あえて足元にも目をやると、その指一本一本の表現も素晴らしく、ふくらはぎなども筋肉がはち切れんばかりになっており、迫力が尽きない。筋肉だけではない。身にまとった衣も流れるような質感があり、全体に動きを演出している。
二体の作風が違うらしいと認識したのは、前出の副島氏の著書を読んでからである。今までそれについて考えたことがなかったのは、二体とも運慶・快慶の合作であるため、そこに作風の違いなどありえないと勝手に思い込んでいたからである。
改めて二体を比較すると、たしかに作風の相違はあるように思われる。調べてみると、そのあたりがどうも微妙らしい。素人では判断しかねるが、研究者によると吽形は運慶風、阿形は快慶風が顕著だという。一方、前出の金剛杵銘には、阿形は運慶・快慶、吽形は定覚(運慶の兄弟弟子)・湛慶(運慶の子)が、
「大仏師」(その仏像の責任者)
を務めたと記されており、研究者はそのズレの解釈に頭を痛めることになる。
ただ、あくまで金剛力士立像の総監督者は運慶であって、二体ともに運慶の作といういい方もできる以上、このあたりの解釈はやはり微妙といえる。
いずれにしろ二体には見た目以上に個性が存在する、ということがいいたかったのである。
陽がかなり落ちて、あたりは薄暗くなった。ライトアップされた南大門が、白く浮かび上がって見える。
ふと、この門はよく見ると、全体のバランスがよくないのかもしれない、と感じた。頭部が若干、広く重すぎるのである。しかし、そういったことまで好ましく思えてしまうほどに、私はこの門の佇まいが好きである。
南大門の前後には、大仏殿へと向かう人の列がいまだ絶えない。果たして今夜、大仏殿前にはどれくらいの人々が集まるのだろう。
N君と参道をゆく。
今度、私がこの参道を歩くのは、いつのことになるのだろう。(完)
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