松平郷 @

  
               松平郷

 司馬遼太郎さんの『街道をゆく 濃尾参州記』を読んでいたら、
「松平」
 の話があった。豊田市松平は、家康を輩出した松平氏の発祥の地である。司馬さんは地図でその地名を目にしたとき、
「考古学者が思わぬ土器の破片でもみつけたような気持だった」
 という。いかにも司馬さんらしい表現で、うれしくなってしまうくだりである。

 松平という地名を聞くと、私は必ずある人を思い出す。大学時代の恩師・新行紀一先生である。
 新行先生は北海道旭川市に生まれた。道立旭川高校を卒業後、東京教育大学(現・筑波大学)文学部史学科に入学、大学院博士課程まで修了した。昭和四〇年(一九六五)、愛知学芸大学(現・愛知教育大学)に助手として着任、昭和五十二年(一九七七)には教授に昇任した。この間には大学紛争・大学移転という大きな問題があったが、新行先生はこれらの問題の重要な委員会のキーパーソンだったという。もちろん歴史研究においても、三河の戦国・織豊期の政治・経済・社会史の分野で業績を残し、現在は『愛知県史』編纂の中世史部会長も務めている。
 若い時分には、かなり手荒い指導もしたらしい。えらく恐ろしい教官だったというが、今となってはまったく想像がつかない。おだやかになられたのは心臓を悪くされたのが原因のようで、以来、仏のような御仁になられた。
 私は平成五年(一九九三)、愛知教育大学に入学した。一年生のとき、新行先生は我々史学科の一年生を、松平郷に連れて行って下さった。そのときの印象が、今も脳裏に焼きついている。
 新行先生は我々を、
「高月院」
 へと案内して下さった。そのあたりがとても雰囲気のいい、歴史を感じさせる場所で、
「ああ、こういう場所こそ、歴史の原点といえるのかもしれない」
 と、当時の私は感じた。新行先生の控え目な解説も、その雰囲気のよさに合致し、この上なくよい心地になった。私はこのとき、将来、絶対に新行ゼミに入ろうと思った。
 四年生になり、卒業論文を書くことになった。私は予定通り新行ゼミを選んだため、その指導でも新行先生に大変お世話になった。論文のテーマは、中世真宗における女人往生思想で、女性は元来、仏教界においても差別されていたことを論証するような内容だった。
 当時、私は必要に迫られ、浄土真宗に関する文献をかなり読んだ。何度も読んだのが唯円の『歎異抄』で、いつも持ち歩いていた。ただ、この『歎異抄』は短い文章だが、ゆえにかえって難解な内容を含んでいた。とくに、
「悪人正機」
 についてのくだりがどうもよくわからない。悪人正機とは「悪人こそ救われる」という思想といわれるが、その考え方をどう解釈していいものか。「自力」で考えようとしたが、駄目だった。
 ある日、研究室で新行先生からマンツーマンで卒論指導を受けた。マンツーマンでご指導をいただく機会は当時、極めて貴重だった。私はそのとき、初めて悪人正機について質問した。
 新行先生が仰有ったことは、たった一言だった。
「念仏は仏教的善悪を越える」
 それを聞いて、目が覚める思いがした。
「悪人こそ救われる」
「では善人はどうなのか」
「悪人とは一体誰を指すのか」
 といったレベルの問題ではないという。まことに明快なご教示だった。
 思えば、かつての親鸞も、弟子たちに自分の言葉で語りかけ、ときにたった一言で弟子の目を開かせたりしたこともあっただろう。そんな師匠と弟子の関係を、自分もふと感じた瞬間だった。

 久しぶりに松平のことを思い出したら、無性に松平というところへ行ってみたくなり、ぶらりとひとりで訪ねてみることにした。
 私が今、住んでいるところのすぐ近くを伊勢湾岸道が走っているが、その道は東で東名高速・東海環状道と接続している。その東海環状道に、
「豊田松平」
 というインターがある。我が家から車で十五分という近さである。
 そのインターから東に向かって山間の道をさらに十五分ほど行くと、そこが松平郷で、山奥のほんの隙間にそれはある。それにしても、こんな狭い土地より将軍家の祖が出たかと思うと、日本史はまことに面白く感じられる。
 十三年ぶりの松平である。
 この日はまさに五月晴れの日で、ついに春ははるか遠くに過ぎ去ったと確信させる陽気だった。
 国道三〇一号線沿いに、
「松平郷」
 の大きな看板があり、広い駐車場があった。そこに車をとめた。
 この駐車場より山の方へ向かってゆるやかに上る坂がある。松平郷への坂道である。途中にはすでに苗が植えられた田が広がり、蛙の声も聞こえる。甘いにおいがするのは、きっと山ツツジだろう。
 その坂道をゆっくり上っていくと、背後から観光バスが二台やって来て、私を追い抜かしていった。(つづく)