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松平郷 A
高月院
司馬さんは『濃尾参州記』の中で、松平郷の変わりようをなげき、
私の脳裏にある清らかな日本がまた一つ消えた。
山を怱々に降りつつ、こんな日本にこれからもながく
住んでゆかねばならない若い人達に同情した。
(司馬遼太郎著『街道をゆく 濃尾参州記』より)
とまで書いている。ふとそのことを思い出した。間もなくバスは停車し、続々と降りた観光客は、集団で近くの神社へと歩いていった。その神社は、
「八幡神社松平東照宮」
という。もともと松平氏の館跡だったが、大坂の役頃に社殿が造営され、家康の死後、家康を祀る東照宮となった。この神社は周囲を堀で囲まれており、かつては典型的な武家造の館だった名残を見せている。
私は、先ほどの観光客が大方いなくなるのを待ってから境内へと入った。こぢんまりとした宮である。建物の色彩にいやらしさがなく、何となく安心した。
すぐ隣に資料館があったのでのぞいてみた。見るべきは、
「木造松平親氏座像」
である。この親氏こそ松平氏の初代なのだが、この男にはいわくがあった。もとの名を、
「徳阿弥」
という。時宗の僧で、父とともに諸国をまわる遊行僧だった。漂白が家業のようなもので、今ならホームレスといわれても仕方がない。
ときは十四世紀末、その徳阿弥が松平郷にやって来て、松平太郎左衛門信重という者の家に逗留し、
「そこにも娘がいた。これと通じ、やがて泰親とよばれる男の子を生ませた」
と、司馬さんは書いている。「そこにも」というのは、まったく同じようなことを徳阿弥は幡豆郡吉良でもやっていて、やはり子をなしていたからである。いくら南北朝期とはいえ、おだやかな話ではない。
一方、これについて松平家では、「信重が神社で連歌会を催したところ、法体の流人が見事な筆跡を披露した。それが徳阿弥で、彼を見込んだ信重は彼を半年間逗留させたのち、婿になってくれるよう申し出て、縁談はまとまった」と伝えている。
私は、当時の時代を考えると、きっと司馬さんの書いた通りだったと思う。松平家は遊行僧に、してやられたといえる。
木造は、高さが三十センチあまりしかない。黒漆塗りで、顔立ちがしっかりしているのが印象的である。目には玉が入っており、それが怪しく光っている。なるほど、松平家の祖先にふさわしい素養を感じなくもない。ちなみに、たしかに彼の地主としての手腕はなかなかのものだったらしい。ただの流人ではなかったということだろう。
さらに坂を上っていくと、坂の先に白く長い白壁が見えてきた。高月院である。ここの白壁は実に長く、それだけでも目をひくが、この日は周りの色鮮やかな緑とのコントラストで、さらにきわだって美しかったのかもしれない。白壁の右手には、山門も見えた。脇には立派な松も立っている。
山門から境内に入ると、正面に石段が見えた。それを上ったところに本堂がある。
高月院は、松平氏の菩提寺である。山門や本堂は、寛永年間の建築だという。
実は当日、高月院では年に一度の、
「天下茶会」
が開かれていた。観光客が大勢来るにもそれなりの理由があったわけだが、静寂の中の高月院をイメージしていた私にとっては、もしかしたら最もよくない日に来てしまったのかもしれない。
やや複雑な気分ではあったが、せっかくなので茶会に出席してみようと思い、大勢に混じって本堂に上がり、赤い敷布の上に座った。
ふと右隣に、スーツを着た丸顔の紳士が座った。頭には少し白いものもあったが、血色もよく、おだやかそうな人だった。その人が、私にお茶の作法などについてこっそり教えて下さった。話をしていくうちに、どうやらその人は、この近くにある松平中学校の校長先生であることが知れた。来賓だからだろう、他の観光客はみな無地の茶碗で飲んでいたが、校長先生に出された茶碗には、カキツバタの花があった。そして、その隣に座っている私には、アジサイの花の茶碗が出された。校長先生のおかげで、半ば来賓扱いを受けたのかもしれない。
司馬さんは、この松平を初めて訪れたとき、高月院とよほど素晴らしい出会いをしたのだろう。その出会いが忘れられず、後年とのギャップを悲しく思ったのが『濃尾参州記』だった。
しかし、もはや現代において、司馬さんが最初に出会ったような純朴な景色をこの日本に期待するのは、無理な相談なのかもしれない。そう割り切って眺めてみれば、この日の高月院の風景も、そう悪くはない。
そんなことを思いながら、本堂を出、石段を下り、そこで写真を撮っていると、背後から声がかかった。
「これも撮ってよ」
寺の若僧だった。年の頃は、私と同じくらいだろう。木の枝の先に、大きなムカデが張りついている。それをこちらに向けて見せている。浄土宗の寺だから髪を剃っていないのは仕方ないが、そうも気安く声をかけられると、何やら興ざめする。
「私は東京から来て十年経つけど、東京にこれはいなかったな」
と、相変わらず馴れ馴れしい。よく見ると、ちょっとやんちゃな風貌である。
やはり、現代人にとって割り切りは必要なようである。
(完)
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