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ある日本兵の体験
〜 Tさんの証言より 〜
平成18年7月22日インタビュー
私は大正七年四月、名古屋に生まれ、昭和十二年一月、各務原にて入隊しました。
入隊前は、安城農林に通っていました。男兄弟はありませんでした。親に、
「高等農林へ行け」
といわれましたが、剣道が好きだったので、本当は京都武道学校へ行きたかった。結局、自分の意志で入隊しました。親戚からは(長男でありながら入隊したので)「極道」の烙印を押されました。
昭和十五年六月に初めて戦地(支那の飛行場)へ赴き、
「スミダ機関」
というところに配属されました。スミダ機関は、情報収集の特殊任務を担った部隊でした。その年の十月には、仏領インドシナへ渡り、以後、ハノイ・サイゴンで二年を過ごすことになります。
昭和十六年十二月、大東亜戦争が始まりました。
私たちはすぐにコンメイ(蒋介石軍への輸送基地)を爆撃しました。このとき、米英軍と五〇分の空中戦をやりました。私にとってこれが唯一の本格的な戦闘でした。自機(カワサキ製爆撃機)は三十七発も被弾しましたよ。
昭和十七年には樺太、さらに札幌に移動し、そのまま二年を過ごしました。
爆撃機は四人乗りでした。パイロットは「目」と「カン」が勝負でしたね。訓練は十分に受けることができましたし、食料も比較的よかった。私の航空隊は比較的優遇されていて、軍服も新しかった。国鉄も(一〜三等のうち)二等に乗ることができました。
スミダには会ったことがない。今も顔を知らない(笑)。諜報部隊とは、そういうもんです。諜報部隊の戦闘員に選ばれたのは、性格や過去の素行を考えてのもので、二等親までの身元調査もありました。
札幌で二年ほど過ごした頃、にわかに北方が騒がしくなり、
「応援に行け」
といわれ、ウルップ島に行きました。その船団護衛のとき、潜水艦を沈めて勲章をもらったけどね。ちなみに、
「玉音放送」
は、このウルップ島にて、ラジオで聞きました。
「死ぬのが怖い」
という感覚はなかったね。不時着を何回もやったけど、一度も思ったことない。敵に遭遇したときは、
「バックミラーを見ろ」
と先輩にいわれました。自分の顔を見ろ、と。そうすると、気持ちが落ちついた。顔が引きつってるようでは、負ける。窮地で信頼できるのは、自分しかない。
演習で、飛行機に二人で乗っていたとき、後ろから火が出た。すぐ近くには燃料タンクがありました。
「急上昇・急降下で消せ」
と教えられていたのでそうしましたが、消えなかった。そこで緊急着陸し、私は脱出しましたが、後ろにいた太田軍曹は間に合わず、爆死しました。これが最も危なかった瞬間でした。でも、こんなことが日常茶飯事ですから。「死」に対する感覚は、戦場にいると麻痺します。死ぬのが怖い、と思う環境ではなかったということです。
「自分の人生、こういうもんだ」
という感じですね。教育と環境は、怖い。人間なんてのは、心の持ちようですよ。
シベリアには三年間いました。関東軍の参謀長もいたな。本来、終戦後の捕虜は「速やかに帰還せよ」が原則ですが、山田中将が溥儀を連れて飛行機で逃亡しようとし、それが察知されて強制着陸させられた。そして、モスクワへ送られる際、
「日本の捕虜をソ連の復興にお使い下さい」
と、一筆書いた。よって、ソ連は非難を受けることなく日本人捕虜を酷使しました。しかし、私のシベリアは辛くなかった。よく魚釣りをしていました。食事の贅沢はいえませんでしたがね。仲間は六〇〜七〇人いました。ロシア人は話してみると人なつっこくて、タバコをくれたりしました。
昭和二十四年、日本に帰還してからは、米軍から尋問を受けました。計四回で、一回は名古屋、他は東京でした。おもにソ連の状況を聞かれました。尋問する中尉は、私のことを何でも知っていたなあ。
「極東軍事裁判」
というのがありました。「勝てば官軍」という言葉がありますが、その気持ちがいくらか入ってると思うよ、あれは。ソ連の兵士が堂々と強姦していたことなどは問題にならないんだから。
東條は無理の戦闘を強いたと思う。戦時中、私も、
「これで日本は立ちゆくのか」
と、個人的には思ってましたよ。
(Tさん ・ 88歳 ・ 安城市在住)
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