大徳寺訪問

  
             瑞峰院の枯山水

 大徳寺といえば、一休宗純(一三九四〜一四八一)や千利休(一五二二〜九一)が有名だが、私にとって興味の的は利休のほうである。つまり、利休はなぜ切腹する運命になったか、ということである。
 大徳寺の入り口に朱塗りの三門がある。正直にいえば、大徳寺の宗風にはふさわしくないと思えるほど高く雅やかな門で、威圧感があるといってもよい。
 この門をつくらせたのは利休である。天正十七年(一五八九)、それまでの単層の門の上に、
「金毛閣」
 を構え、重層の楼閣として完成させたという。ちなみに「金毛」とは金毛の獅子のことで、すぐれた禅僧のことをさす。わび茶の大成者がこのようなものをつくらせたとは、にわかに信じがたい気がする。
 おまけに利休は、その楼上に自らの木像を掲げた。雪見の像で、雪駄をはいて立っていた。その下を人々が通る。もちろん、秀吉も通る。これらのことがあまりにも不遜だとし、利休は秀吉より死を賜った。木像も磔にされた。木像の磔刑など前代未聞であり、秀吉の怒りようが察せられる。秀吉もよほど自己顕示欲の旺盛な人物だったが、利休も晩年になってその風に吹かれたということなのかもしれない。
 ちなみに、磔になった木像は現存するが、裏千家が保管していて見ることはできない。

 それにしても、大徳寺ほど我ら俗人にとって敷居の高い名刹も少ない。今日、多くの古刹が観光資源化してしまったが、この大徳寺だけは厳しく俗化をこばんでいるといってよい。そのせいだろう、毎年のように京都を訪れる私だが、大徳寺を訪れるのは実に十五年ぶりとなった。
 長い間、訪れなかった理由は、もうひとつある。枯山水というものがどうもわからないのである。私は十五年前、たしかに大仙院の枯山水を見ている。利休が秀吉をもてなしたとされる茶室の目の前にそれはあったが、当時高校生だった私にその世界は解せなかった。ただ、その石々のかたちだけはなぜか鮮明に記憶に残った。

 今回ははじめて、
「瑞峰院」
 に足を運んでみた。キリシタン大名として名高い大友宗麟の創建である。
 ここにも枯山水が、方丈の北側と南側にそれぞれあった。当時の枯山水そのものと思いきや、重森三玲(一八九六〜一九七五)という明治期の作庭家によるものだという。
 重森はもともと東京美術学校で日本画を学び、ついで茶の湯や生け花に浸ったが、昭和十年代からは枯山水を手がけるようになった。戦後も作庭をさかんに行い、その手法はいつも大胆であり続けた。なるほど、北側の庭は通称、
「十字架の庭」
 とよばれるとおり、七つの石が十字架のかたちに並んでいる。といっても、近くに掲げてあった案内板にはそう書いてあったが、実はそう教えられてもにわかにはわからなかった。考えあぐねたあげく、他の観光客に教えられてやっと理解できたが、それと同時に、私の中に一種の反感が生じた。枯山水においてここまで趣向を凝らす不自然さに理解を示そうと思えなかったのだろう。
 しかし、である。南側の庭も同じく重森の作だが、こちらは広大な海をあらわす白砂の中に石々が中央を切り裂くようにのび、それが極めて鋭く見え、何ともいえず感じがよかった。
「独坐の庭」
 というらしいが、たしかに庭を前に一人で静かに座ってみたい思いになり、しばしそれを実行することにした。
 ふと隣に高校生らしき女の子が一人、座った。今どきの子らしく、膝丈のジーンズをはき、肩からカバンをかけ、短い髪をうしろで結んでいた。その子も静かに枯山水と対峙している。その時間が、思いのほか、長い。
 何を考えているのか、他人には知るよしもないが、こんな今どきの女の子にさえ思案をさせてしまう場所、あるいはそのように見させてしまう枯山水というのは、もしかしたらそれだけで十分に存在価値があるのかもしれない、とふと思った。
 私は、枯山水というものを少しだけ認めたいような気分になった。