甲 賀 み ち @

  
             
望 月 家

 甲賀を訪れようと考えたのは、二つの理由による。
 一つは、最近、興味が出てきた陶器の産地だということである。いうまでもなく甲賀市信楽町は、
「信楽焼」
 の産地として名高い。私は最近、小林先生の影響もあってか、陶器を愛でようという意欲がわくようになってきたのだが、いかんせん知識に乏しい。そこで、N君と同行することにした。N君も決して陶器に詳しいわけではないが、一緒にいてくれるだけで若干は心強いと思ったのである。
 もう一つの理由は、ぜひとも、
「紫香楽宮跡」
 を見たいと思ったのである。私は奈良の東大寺が好きで年に何度も出掛けていくが、東大寺の大仏はもしかしたら紫香楽の大仏だったかもしれない。つまり、
「大仏造立の詔」
 は紫香楽宮で出された。紫香楽宮は、聖武天皇が天平十四年(七四二)、今の甲賀市信楽町に造り始めた宮で、当初、大仏はその紫香楽の地に造られるはずだった。結局、大仏は平城京に造られることになったが、一度は大仏を造立しようとした紫香楽という土地は一体どのような土地なのだろうか、と興味を持ったのである。
 私たちは、私の車で現地へと向かった。奈良へは二時間以上かかるが、甲賀へは一時間半で到着する。
 ちなみに、甲賀市は平成十六年にできたばかりの新設のまちである。いわゆる、
「平成の大合併」
 によって、信楽町・水口町・甲南町・甲賀町・土山町の五町が合併し、甲賀市となった。

 旅では意外なことが起きる。
 私の場合、N君と一緒に行動すると、そうなる場合が多いのかもしれない。今回がまさにそれで、甲賀市に入ってしばらくすると、N君が、
「忍術屋敷に行きたい」
 といいだした。まさかN君のような超現実主義者が、
「甲賀流忍術屋敷」
 へ行きたがるとは夢にも思わなかった。私は甲賀の忍術屋敷の詳細は知らなかったが、かつて伊賀上野で同様の場所に行き、何ともいえぬ気分になった前歴があるので、真っ向から反対した。反対したが、N君がやけに行きたがるので、仕方なく私が折れた。
 しかし、結論からいうと、この忍術屋敷は面白かった。一見、そこらのいかがわしい観光地と思えてしまうが、本来ならここは、
「望月出雲守旧宅」
 とでも表記すべき場所なのである。忍術屋敷と看板を掲げているので、私などは見向きもしなくなってしまうが、出雲守旧宅であったなら、印象はまったく違ってくる。
 この家の望月氏はもともと信州の出身だったが、平将門の乱の鎮圧に功があり、この地を拝領した。その後、勢力を広げ、伊賀の一部まで支配下に置くようになった。
 そもそも甲賀武士には五十三家があったとされるが、望月氏はその中でも有数の豪族だった。もっとも栄えたのは戦国期で、いわゆる、
「甲賀者」
 として諜報活動をさかんに行ったと思われる。
 江戸期には、時流から諜報活動は廃れたが、かわりに伊勢・朝熊山の明王院の御札を売り歩き、加持祈祷をして諸国をまわるようになった。それが明治期まで続いたが、明治十七年(一八八四)、御札配りをしてはいけないという配札禁止令が出ると、今度は副業だった、
「置き薬」
 の販売を生業とし、甲賀売薬の先駆者となった。
 望月家の家の造りは、江戸・明治期の豪農を思わせる。さすがは甲賀武士五十三家の筆頭格の家である。屋根は茅葺きである。縁側からおそるおそる中へと上がるとすぐに受付があり、婦人が応対してくれた。
 外観では平屋に見えるが、実際は三階の構造を持つという。そのあたりは実に忍術屋敷らしい。一階はきれいに畳が敷かれ、だだっ広い。奥には望月家に伝わる小道具が展示されていて、もちろん手裏剣の類もあった。面白いと思ったのが、地面にまいて敵の侵入を防ぐ、
「まきびし」
 である。私は、これの正体が乾燥させた天然のヒシの実だということをはじめて知った。尖った部分は一つにつき四箇所あるのだが、たしかに鋭い。こんなものをまともに踏んだら、たまったものではない。
 ただこのあたりでは、私はまだこの家を紛い物としてとらえていて、とくに感慨もなく展示物を眺めていた。
 隅の方に、薬草づくりの道具が一式あった。先述のとおり、いわゆる甲賀者は薬売りを副業としたから、当然こういった道具も必要となる。頭上には薬の看板も掲げてあり、
「かぜぐすり アスピリン丸」
「淋病必治薬 排淋」
 などの文字が読めた。なるほど、この望月家を単なる忍術屋敷ととらえると何ということもないが、医薬にゆかりの地と考えると、なかなかの場所のようにも思える。
 私は江戸期の医学に興味がある。もともとは幕末の長州人・大村益次郎の話を読んだときに、大村はかつて大坂の適塾出身の蘭学医であったから、
「ほう、蘭学医とはこうであったか」
 と、その生き方に感慨を持ち、そのかかわりでシーボルトやポンペの名を知った。医学とは調べれば調べるほどに興味深い分野で、それは人間の生死に関わる課題でもあったから、いつの時代でも人々の関心事であり続け、今日に至っている。また、それにともなって医薬の世界も幅が広い。いつか本格的に医薬の話も読んでみたいものである。

 一階を見学し終わり、二階に上がることにした。二階へは木の梯子で上る。私が先に上っていくと、そこは木の床の広間のようになっていた。薄暗い中、人が一人、何やら修理をしている。あとから上がってきたN君がこの人に話しかけた。年の頃、七十くらいの翁だった。どうやらここの案内人らしい。翁は、それまでは黙々と作業をしていたのだが、一旦話し出すと、ガイドとしての本分を存分に発揮するタイプらしく、猛然と話し始めた。翁曰く、
「忍者はフィクションやった。忍術だってフィクションの世界のようです」
 屋敷のガイドとしては、ある意味、不適格なのかもしれない。要するに、望月家の真実の姿を伝えたいという思いが強いのかもしれない。この人の話しぶりがまた面白かった。
「昭和三十年代に、郷土歴史家の中西さんが『望月家の先祖は忍者やった』と発表したんです。そういえば、そこの渡辺さんとこも、完全なる忍者です」
 あまりにもしゃべり続けるので、N君が思わず聞いてしまった。
「おじさん、誰?」
 おじさんは一瞬、唖然としたようにも見えたが、すぐに笑いながら、
「近江製剤の社長ですよ」
 といった。どうやら現在、この望月家の建物は近江製剤の所有らしく、代表取締役がこの翁だという。
 そのあと、翁は地下へと続くたて穴を見せてくれた。N君が一生懸命にそれについて質問している。私はその内容よりも、二人のやりとりがおかしくて仕方がなかった。N君のちょっと間の抜けた質問にも、社長は懇切丁寧に答えている。性分なのだろう。
 そもそも甲賀者は、表向きは薬を売る者として生計を立てた。その関係もあり、この望月家では現在、近江製剤なる会社が医薬を製造販売している。工場は別の場所にあるらしいが、製品は屋敷の土産売り場でたくさん売られていた。そのパッケージがなかなか味があってよい。
「はらぐすり クヨー丸」
 という箱に入った薬があったので、買い求めることにした。
 私には置き薬の記憶はないが、N君は、
「昔は富山の薬売りが家に売りに来たよ。いつも魚屋さんのような太い声の、背の高いおじいさんだったな。その肩からおしりまであるような荷物を茶色い風呂敷に包んで持ってきていた。風呂敷の中は籐の籠で、その中に薬がぎっしりつまっていた。子供たちにはいつも風船をくれたな。僕が中学生くらいまでは来てたんじゃないかな」
 という。
 次の観光客が来たので、社長はそちらへ行ってしまった。私は思わず、
「あの社長、何だかすごいですねえ」
 と、受付の婦人に話しかけると、婦人は、
「そうですやろ、あの人、何でも知ってるでしょう。今でも情報収集してますのや。忍者の習性ですわ」
 と笑った。どうやら、社長は今も置き薬を売って各地を歩き回っているらしい。望月家の流れをたしかに継承している、ということだろう。(つづく)