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甲 賀 み ち A
紫香楽宮跡
紫香楽宮は以前から気になっていた。紫香楽宮の主人公といえば、聖武天皇である。
聖武天皇という人物がどうもよくわからない。聖武天皇はいうまでもなく、平城京に大仏をこしらえた人物だが、もともとその大仏は紫香楽に造るはずだった。
天平十二年(七四〇)、太宰府の次官だった藤原広嗣が九州で反乱を起こした。これより少し前に大流行した天然痘で、藤原氏の主要人物が相次いで急死し、追いつめられた広嗣が巻き返しを図ったのだった。乱は平定されたが、そののちも朝廷の動揺はおさまらず、聖武天皇はそれから数年の間、恭仁・難波・紫香楽と都を移した。
より正確に書くとすれば、聖武天皇は乱がまだ続いている段階で、平城京を抜け出し、伊勢に行幸した。そして、今の三重県一志郡にて広嗣処刑の報を受けた。行幸の人々はこれで平城京に帰れると思いきや、聖武天皇はさらに伊勢湾岸を北上して濃尾平野に進み、美濃国不破関から近江に入った。
天平十三年(七四一)、平城京の北の地、山城の木津川のほとりに恭仁京の造営が始まり、翌年八月には紫香楽村に離宮が造営され始めた。聖武天皇が初めて紫香楽村に行幸したのはこの八月のときである。この行幸で聖武天皇は紫香楽に心をひかれたらしく、このあと紫香楽への行幸を繰り返す。二回目は同年十二月、三回目は翌年四月、四回目は同年七月で、四回目の際には三ヶ月も滞在した。
この長期滞在の間に、
ここに天平十五年歳は癸羊に次る十月十五日を
以って、菩薩の大願を発して廬舎那仏の金銅像一
躯を造り奉る。……夫れ天下の富を有つ者は朕な
り。天下の勢を有つ者も 朕なり。此の富勢を以っ
て此の尊像を造る。事や成り易くして、心や至り難
し。
と『続日本紀』に記される、
「大仏造立の詔」
が出され、大仏を造るために
「甲賀寺」
をも開いた。つまり、聖武天皇はこの四回目の行幸のときに、紫香楽を仏教の聖地とすることを明確にした。
しかし、恭仁京の造営と甲賀寺での大仏造立の事業の両立は、国家の財政を著しく圧迫した。
それだけではない。聖武天皇は突如、恭仁京の造営を休止したかと思うと、今度は難波宮の造営に取りかかった。このあたり、聖武天皇の酔狂と思われても仕方がない。
要するに難波宮と紫香楽宮が両立するようなかたちになったが、その頃から紫香楽宮や甲賀寺の周辺で火事が続発するようになる。紫香楽遷都に不満を持つ者による放火だったのかもしれない。さらには地震にも襲われ、人々は大いに動揺した。動揺した人々が求めたのは平城京だった。聖武天皇は藤原広嗣の乱以来、四年半ぶりに平城京に戻り、大仏造立は平城京の東の地にて存続されることとなった。それが現在の東大寺である。
この日は梅雨の真っ直中ということもあり、朝から雨模様だったが、この紫香楽宮跡を訪れたときには、雨ははっきりと降りはじめた。
雨の中、車で細い坂道を上っていくと、左手に、
「史跡紫香楽宮址」
と刻まれた石碑が建っていた。現在、この碑が建っている付近は、実はかつて甲賀寺があった場所だという。私たちはその碑の近くに車をとめ、甲賀寺跡へと続く山道を歩いていった。
甲賀寺跡は現在、礎石が残るのみである。木々が鬱蒼と茂る中、その礎石群は突然に姿を現すが、それらは今となっては人々にはかなさを感じさせるのみである。
礎石は、それぞれ中門・金堂・講堂・僧坊などのものがある。N君が、
「あれ、ここの礎石は一層大きいね」
といったのは鋭い指摘で、そこは塔の礎石である。五重塔だったという。どうやらこの寺は、西側に金堂・講堂、東側に塔を配する、東大寺に似た伽藍配置の寺院だったらしい。
とにかく礎石だけはきれいにしてあり、そのかたちははっきりわかるものの、礎石群の周辺一体はほとんど手入れがされていない。森林は荒れ放題で、まことにここが寺院跡なのかと思えてしまう。しかし、今日開発が進む中、これほど人々が足を踏み入れていない遺跡は稀であり、考えようによっては貴重な遺跡といえなくもない。
この場所が初めて発掘調査されたのは昭和五年(一九三〇)である。それまではここが宮跡そのものと思われていたが、この調査でどうやらそうでないことが明らかになった。宮はさらに北にあった。
甲賀寺跡より北上すると、建設中の第二名神に突き当たる。そこを突き抜けた先に、水田が広がる空間がある。周囲はすぐに山々が迫っているから、それほど広い空間ではない。このひたすら水田しかない地が何とかつて紫香楽宮があった場所であり、現在は、
「宮町遺跡」
という名称がつけられている。ここに朝堂などの主要な建物があった。規模はそれほど大きくなく、まさに離宮というにふさわしい様相だったろう。
私は雨の中、その空気を肌で感じようと傘も持たずにたたずんでみたが、あまりの人気のなさに半ば閉口した。ただひっそりとしていて、かつてここに宮があったとはとても思えない。
ふと、聖武天皇はどうしてこの地に宮をつくったのか、と思った。いらだちや移り気の類であったのか、それとも極度の神経質であったのか。もし後者であったならば、こういった土地で日々を過ごすことはたしかに必要だったかもしれない。そう思って見てみると、周囲の山々のかたちも決して悪くなく、この天皇は若い頃から狩猟を好んでいたというから、その点においてもこの地は適していたのだろう。
つまりは、この地は聖武天皇の最大の癒しの場だったかもしれず、今もなおその地が人気もなくひっそりしているのだとすれば、この天皇の目のつけどころは悪くなかったといえる。
水田にはきれいに植えられた苗が青々としていて、その間を一人の老人がゆっくりと歩いていく。他には一人の姿も見ることがなかった。(つづく)
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