甲 賀 み ち B

  

信楽焼の里

 昼食を取ることにし、信楽にある店に入ることにした。ちょうど信楽焼の里の入り口付近に、
「豆狸」
 という雰囲気のいい店構えがあったので、寄ってみた。店内に入ると、さすがに信楽と思わせる焼き物の数々が並んでいる。
「焼き物、お好きなんですか」
 と、カウンターに座った私たちに、店の女主人らしき人が尋ねてきた。私たちが愛知から来たことを告げると、
「そうですか。じゃあ、常滑がありますね」
 といった。
 たしかに愛知には常滑や瀬戸という古窯があるが、何となく信楽の方がありがたく思えてしまうのは、私が俗人だからだろう。
 N君がこの人に、焼き物のいい店はないかと聞いてみると、すぐ近くにある、
「澤幸雄商店」
 を勧めて下さった。
 その商店は豆狸から車で数分のところにあったが、我々庶民にはもってこいの店だった。
 私は、これまでの人生で焼き物というものを一度も買ったことがなかった。よって、店に並ぶ焼き物の群れを見ては、色や形が実にさまざまなのにいちいち感心し、N君に滑稽がられた。
 私がここで買い求めたのは、蓋のついた湯飲みと、直径が四センチほどしかない渋い色のぐい飲み、山型の切れ込みの入った小鉢である。N君は、箸置きを二つ買っていた。

 信楽焼の歴史は古い。そもそも、
「六古窯」
 とよばれる瀬戸・常滑・越前・丹波・備前・信楽の地は、どこも須恵器などの影響を受け、陶芸が始まったとされる。信楽の場合、その創始は鎌倉時代だったろう。
「古信楽」
 という言葉もあるが、これは中世の穴窯で焼かれた信楽の総称で、鎌倉から安土・桃山までのものをいう。
 穴窯とは、須恵器窯に倣い、山麓の山腹を利用してトンネル状の穴を掘って窯としたもので、上方には煙の道となる穴を開けていた。
 慶長年間になると、窯のかたちは変化した。いわゆる、
「のぼり窯」
 で、この窯で職人は一度に大量の焼き物を焼くようになった。この頃の主力製品は茶壺だった。信楽焼が庶民にとってなじみあるものになったのは、文化・文政年間からあらゆる生活必需品を焼くようになってからである。
 信楽焼は明治になっても衰えることはなかったが、大正時代をさかいとして、
「せともの」
 などの磁器製品に圧倒されるようになった。
 戦後、信楽焼が有名になったのは、信楽が火鉢や狸の置物を大量生産するようになったからである。
 狸を大量生産するきっかけをつくったのは、昭和天皇であるらしい。
 昭和二十六年(一九五一)十一月、昭和天皇は信楽へ行幸されたが、そのとき信楽は、狸の置物を沿道に並べ、日の丸の旗を持たせて歓迎した。それを見た昭和天皇が、

  幼なとき あつめしからになつかしも
  信楽焼の 狸をみれば

 という歌を詠まれ、それが新聞などで公表された。どうやら昭和天皇は、幼少の頃に信楽焼の狸を集めていたらしく、それを思い出したという。
 以降、信楽焼の狸は全国に知れわたった。今日では信楽の道を行くと、ここかしこに信楽焼の狸が見られて楽しい。

  室町期の茶人に愛されたような気分からほど遠い。
             (司馬遼太郎著『街道をゆく』より)

 といわれればたしかにそうだが、これはこれで一風景という気がする。

 澤商店をさらに南下すると、
「信楽伝統産業会館」
 というのがあり、中では江戸期の信楽焼などを見ることができた。会館のすぐ脇には神社があったが、その周辺は、
「窯元散策路」
 として整備されていて、そこを巡り歩くと多くの窯元を見ることができるようになっていた。雨は降り続いていたが、せっかくなのでその道を少し歩いてみることにした。
 ところが、天気のこともあるだろうが、観光客どころか地元の人もそこら辺に一人もおらず、不安になるような道だった。いくつかの窯元にも立ち寄って見たが、無人のところが多かった。
 一軒だけ、職人らしき人がいる窯元があった。
「窯を見せていただいてもいいですか」
 と聞いてみると、
「どうぞ」
 といって下さったのでのぞいてみたが、残念ながらガス窯だった。最近ではガス窯がほとんどだという。

 やや淋しい気分のまま、信楽を出ることにした。信楽から出るにはいろいろな道があるが、私は、
「御斎峠」
 から出ようと決めていた。御斎峠は旧信楽町のほぼ南端で、三重県との県境である。
 かつて司馬遼太郎さんは『梟の城』という小説を書くとき、最初の場面をこの峠とした。名前が気に入ったという。

  出かけてみたが、しかしひどく遠く、その上道が悪く
  て、特別の足ごしらえでもなければ雨の日に登れる
  ようなところではないとあきらめ、結局は遠望するの
  みで、地図を読みつつ書くことにした。
             (司馬遼太郎著『街道をゆく』より)

『梟の城』の取材のとき、結局、司馬さんは御斎峠を訪れることができなかったが、後日、『街道をゆく』でこの峠を訪れ、思いを遂げている。二度とも煙雨に包まれていたらしいが、今日もやっぱり同様の景色である。この峠ほど雨の景色が似合う場所も稀かもしれない。
 途中、峠の数キロ手前にパン屋があり、その先はほとんど民家もなさそうだったので、ここで道を聞いておくことにした。店内に入るとご主人がいらっしゃったので、N君が、
「あの、御斎峠に行きたいんですけど……」
 というと、主人は、
「ああ、御斎峠ならこの道をまっすぐだけど、道が狭くて車がすれ違うのも大変だよ。少し道を戻って、パチンコ屋の交差点を左折していった方がいいですよ。でも、どちらに行かれるんですか。今日なんか、景色は何も見えませんよ」
 といった。念のため、N君が、
「その道、山道が不慣れな人でも下りていけますか」
 と聞くと、主人は、
「ええ、下りていけますけど、今日は何も見えませんよ」
 と繰り返した。
 パン屋の主人のいったとおりにパチンコ屋を左折し、きれいに舗装された山道をどんどん登った。しばらく行くと、もともと雨に煙っていた景色が、一層白っぽくなった。私たちはそこが御斎峠であることを直感した。
 古来、伊賀へ入る峠は七つあるとされた。
「伊賀の七口」
 とよばれるもので、御斎峠もその一つである。
 この峠はまことに不気味であって、N君は車を降りたがらなかった。仕方なく私は一人で歩いていき、わずかの距離ながら自らの足で峠越えをした。
 御斎峠の名は、鎌倉時代に夢窓疎石が伊賀の山寺を訪ねた折、この峠で村人が食事の接待(斎)をしたことから発しているといわれる。
 ちょうど頭上に看板がぶら下がっており、
「三重県」
 とあった。つまり、甲賀と伊賀の境である。
 伊賀・甲賀という場所が場所だけに、たかが峠であっても、それが何ともいえぬ趣を醸し出している。なるほど、前方は開けているが、パン屋の主人がいったとおり、今日は何も見えない。霧が真っ白に立ちこめるのみである。
 しかし、私はそれを残念とは思わなかった。この方が、御斎峠にはふさわしいように感じたのである。(完)