勉学の風(ふう)

  
               伊賀上野城


 先週、友人と、
「伊賀上野城」
 を見に行きました。
 伊賀上野城は、藤堂高虎が自ら縄張りを指示し、慶長十七年(一六一二)に落成しました。もっとも、その五層の天守閣は完成後、間もなく失われます。暴風雨のためともいい、高虎の保身を考えた苦肉の策、つまり高虎は家康にとって外様であって、そのため家康の目をはばかり、大層な天守閣を自ら取り壊した、ともいいます。有名なのは石垣の高さで、本丸のそれは三十メートルもあります。日本一の高さだそうです。

 私たちは天守閣の内部を見終えたのち、ぶらぶらとその周囲を歩いてみました。そのとき、城の下の方から高校生らしき一団が本丸に向かって上ってきました。男女あわせて三十名ほどいたでしょうか。女子の白いセーラー服がやけにまぶしく感じられました。
 感心したのは、その女子たちに今どきが感じられなかったことです。今どきの女子高校生については今さら書きたくありませんが、本丸に歩いてきた女子たちは、言葉は古いかもしれませんが、よほど清楚な気がしました。
 その一団は、おもむろに日本一高い石垣の上に整列しはじめました。今度は一人がキーボードを準備しはじめたので、私たちはやっと事情を察しました。今から合唱の練習をするらしいのです。
「○○さんは体調不良のため欠席です。○○君は勘ちがいのため欠席です」
 といった、学級委員らしき女子による点呼があったあと、いよいよ声出しがはじまりました。私はこれらの様子をしばらく眺めていましたが、実に清々しい気分になりました。日曜日だというのに、クラスのみんなが集まって一生懸命に歌の練習をし、しかもその場所がお城なのですね。すべてが素敵なことに思えました。
 城から下りてくると、そのふもとに高校がありました。門に、
「県立上野高校」
 とありました。どうやらさきほどの高校生は上野高校の生徒だったらしい。よく聴くと、構内からもいろいろな歌声が聞こえてきます。おそらく近いうちに学校祭があって、そのときにクラス対抗の合唱コンクールがあるのでしょう。私たちは、透きとおるような美しい歌声を聴きながら、校門の前を歩きました。
 この上野学校の建物の構えも実によかったですね。白壁の洋館で、屋根のみグレーでありました。典型的な明治の建築で、見るからに昭和の建物ではありません。近くにあった案内板によると、校舎は明治三十三年(一九〇〇)に竣工されたものらしい。
 この学校は明治のころは、
「三重県第三中学校」
 といいました。卒業生に何と、横光利一(一八九八〜一九四七)がいます。明治四十三年(一九一〇)に入学し、卒業後、早稲田大学に進学しています。
 こういった歴史を示されますと、たとえばさきほどの女子たちの様子も納得がゆく気がしました。彼女たちはきっと、日々、歴史と伝統を背負って登校しているにちがいありません。だからこそすべての行動におさえが効いているような気がしました。
 上野高校を西に行くと、伊勢津藩の藩校の支校として建てられた、
「崇廣堂」
 があります。現在、藩校の姿をとどめている建物は全国でも多くありません。その点、この崇廣堂の建物は往時を十分にしのばせます。明治三十八年(一九〇五)から昭和五十八年(一九八三)までは市(郡)立図書館として利用されていましたが、その後、修理・復元して今日に至っています。
 私たちは入場料を払って建物内部を見てまわりました。障子戸で仕切られた部屋がいくつもあり、その一番奥に講堂がありました。どの部屋もきれいに畳が敷かれており、とくに講堂はだだっ広く、そこにある種の威厳をたたえていました。この講堂の表には扁額が掲げられています。「崇廣堂」と書かれたそれは、かの上杉鷹山の筆によるものです。当時の藩主が鷹山に懇願して書いてもらったといいます。
 崇廣堂を北に数百メートル行ったところには、
「旧小田小学校」
 の建物もありました。明治十四年(一八八一)に建てられたもので、現存する小学校校舎としては県下最古といいます。木造洋風の二階建てで、二階にはバルコニーがあり、屋根のてっぺんには太鼓楼があります。児童数の減少により、昭和四十年(一九六五)に廃校となりましたが、評価できるのは、廃校後もその姿を保存しようと地元の人々が努力してきたことです。古きよき教育文化を後世に伝えようとする意欲が感じられますね。
 このほかにも、崇廣堂の西隣には崇廣中学校、上野高校の東隣には上野西小学校がありましたが、いずれも新しい建築ながら、校舎の色彩・材質など、それなりに歴史感を醸し出そうという工夫がなされており、好感が持てました。

 一言で申しますと、伊賀上野には、
「勉学の風」
 がある、ということですね。この町は、城のふもとに現役・退役含めてさまざまな教育機関を密集させ、独特の空間をつくり出しています。こういった雰囲気を醸し出すことは、市町村が首長を中心にしてよほど意識的にやらないとできませんし、さかんにはなりません。それを伊賀上野は見事に実現しております。
 その中で学ぶ者は、その文化の重厚さにきっと背筋ののびる思いがするでしょう。これは真実だと思います。何よりも、上野高校の生徒の姿がそれを証明しておりました。

 伊賀上野の人々は、この勉学の風を誇りに思うべきです。また、それをいつまでも大切にしていくべきだと思います。
 私は、こういった文化水準の高さを感じさせる町が好きですね。