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我、神田ノ古書店街ニテ心ヲ驚カス
神田の古書店街に何度か足を運んだことがあります。古書店街の規模としてはおそらく世界一ではないかと思うんですが、古書が好きな人にとって、あそこほど楽しい空間はありませんね。ありとあらゆる分野の古書店が軒を連ねています。その数、百六十軒以上といいます。
実は私も古書というものが大好きでして、神田を初めて歩いたときは、それは感慨深いものがありました。しかし、一度行っただけではその魅力がつかみきれず、よって何度も足を運ぶことになってしまいますが、行けば行くほど奥行きの深さを体感して帰ってきます。これからも何度も足を運ぶことになりそうです。
神田の古書店街については、司馬遼太郎さんの有名な話があります。
司馬さんが『竜馬がゆく』を執筆しようとしたときのこと。そのための資料を集めるべく、司馬さんは神田にある幕末関係の書籍を買い占めました。忽然と神田から幕末関係の書籍が消えたんです。司馬さんが買い占めた書籍は三千冊、購入代金は一千万円を超えたといいます。
司馬さんの超人的な資料収集ぶりもさることながら、別の視点から見れば、それに応えるだけのものが神田にあったということです。
神田とはそういう街なんですね。
昨年十一月、東京への出張のついでに、神田の「東京古書会館」というところに行ってきました。ここでは古典籍・掛け軸などの入札が日々行われているんですが、業者以外は立ち入り禁止なんです。年に数回、一般向けに入札会が開かれるそうですが、奇遇にもその日がその入札会だったんです。緊張しながら会館内に入ってみました。
内部は凄いことになっていました。そこには古典籍・掛け軸などがところせましと並べられていました。それが何フロアにも渡って広がっているんです。出品総数二、二四二点。数だけでなく、その内容にも驚かされました。「楠木正成書状」「武田信玄書状」「徳川家康書状」「西郷吉之助書状」といったものが平気で並んでいるんです。実際に手を触れることさえ可能です。
ただ、こういったもので最も大事なのは、いうまでもなく真贋であります。
実はこのとき、私はあるものに心奪われました。「河井継之助書状」です。河井は、司馬さんの小説『峠』の主人公で、長岡藩の軍事総督だった人です。私は昔から河井に興味があって、これを見つけた瞬間、
「おおっ」
となりました。
「これは是非とも手に入れたい」
と思ったんですが、問題は真贋です。これがまた怪しいんですね。かといって、真に本物だとしたら、買い逃したくはありません。安い買い物ではありませんので、かなり迷いました。
ちなみに、入札は業者(古書店)を通してということでしたので、私は一旦、会館を出て、同じ神田の古書店・誠心堂書店さんに入りました。店長に一度聞いてみようと思ったんです。生憎、店長は入札会で留守をされていましたが、奥さんが対応して下さいました。
私は、
「本物であれば四十万出しますので」
といい残し、携帯電話の番号を書き置きして店を出ました。
数時間後、店長の橋口候之介さんから電話がありました。
「真贋は保証できませんが、四十万出されるのなら、おそらく落札できます」
とのことでした。私はさらに迷いました。返事をさらに数時間待っていただきました。
結局、私はその書状を買いませんでした。まあ、今となっては、それで良かったと思っていますが。
たとえばこのような話は、古典籍などに興味のない人にとっては、えらく馬鹿げた話に思えるでしょう。しかし、興味ある人にとってはまるで「麻薬」のような話でありまして、私も一瞬、その中毒になってしまったということですな。
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