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竹内・葛城のみち @
竹内街道
奈良盆地の西側に山が連なっている。金剛山地という。その金剛山地の北端に、
「二上山」
という山がある。
かつて大和三山のひとつである畝傍山にのぼったとき、山頂から周囲の景色を見わたしてみた。北東にはやはり三山のひとつ、耳成山が霞の上に鎮座するように見えたが、ふりかえって西をながめると、実に姿のよい山があるのに気づかされた。
けっして高くはないが、きれいな三角形をした山がふたつ並んでおり、まるで二瘤駱駝の背中のようであった。加えて、その日は雲ひとつない晴天だったが、その空の青さよりももっと深く美しい色をしていた。
私はその山の名前がわからなかったが、のちにそれが二上山であることを知った。なるほど、名山とはさすがに人の気をひくものだと感心した覚えがある。これが私と二上山との出会いである。
その二上山にいつかのぼりたいと思っていた。そうMくんに話してみると、ふたつ返事で同意してくれた。今年の仲秋の名月は十月六日だったが、その二日後の日曜日、私たちは二上山とその周辺を訪ねることにした。
二上山に行く場合、どうしても寄ってみたい場所がある。
「竹内街道」
である。司馬遼太郎さんが『街道をゆく 竹内街道』(昭和四十六年発表)の中で、
村のなかを、車一台がやっと通れるほどの道が坂を
なして走っていて、いまもその道は長尾という山麓の
村から竹内村までは道幅も変らず、依然として無舗
装であり、路相はおそらく太古以来変っていまい。そ
れが、竹内街道であり、もし文化庁にその気があっ
て道路をも文化財指定の対象にするなら、長尾〜竹
内間のほんの数丁の間は日本で唯一の国宝に指定
さるべき道であろう。
(司馬遼太郎著『街道をゆく 竹内街道』より)
とまで書いた、日本最古の官道である。
西名阪自動車道を香芝インターで降りた私たちは、まずその竹内街道へと向かった。インターから六キロほど南下したところに、その街道はあった。
道は、近鉄磐城駅付近からはじまり、やや曲がりながら西へと続いている。全長はおよそ一.五キロある。たしかに道幅はせまく、しかし車は何とかすれちがっている。司馬さんのころより道幅が広くなっているのだろう。最も残念なことに、現在の竹内街道は舗装されてしまっている。現代においては当然のことといえるが、もし司馬さんの書いたごとく文化庁がこの官道を国宝に指定しておれば、きっと舗装化はまぬかれたにちがいない。つまりは、現在の竹内街道にはもはや国宝の資格はない。それでもそのアスファルトの色が黒ではなく茶色であるのは、かろうじて日本最古の官道というものへの配慮だろう。
私たちは、この全長の半ばにある総合体育館の駐車場に車をとめ、そこから西へと歩くことにした。
「あっ、金木犀の匂いだ」
とMくんがいった。たしかに、あたりは金木犀の香りに包まれている。
道は西へと上っている。リュックを背負って歩いている人が何人もいる。それらの人々はほとんどが西へ向かって上っていった。もしかしたらこの先の竹内峠まで歩いていく人なのかもしれない。
道の両側には、大きな家が立ち並んでいる。景観を考えてのことであろう、黒やそれに類似した色の家が多く、立派な茅葺きの家も何軒かあった。
途中、
「綿弓塚」
と書かれた看板があった。松尾芭蕉に関する史跡らしい。看板の矢印に沿って街道から奥へと入ってみると、小さな公園のようになっており、記念碑らしきものが建っている。そこにあった案内板の説明によると、この街道筋は芭蕉の門人・千里の郷里であり、芭蕉は生涯に数度、この地を訪ねているという。そして、『野ざらし紀行』にこの地のことを詠んだ、
綿弓や 琵琶に慰む 竹の奥
という句を残している。「綿弓」とは綿打ち弓ともいい、種を取り除いただけの繰綿をはじきうって精製するための道具で、うつときに琵琶を弾いたような音が出る。繰綿をうつ弓の音が竹薮の奥にひっそりとたたずむ家に琵琶語りのように鳴り響いている、というのである。もちろん「竹内」と「竹の奥」がかけられた句であろう。
この句を記念し、「綿弓塚」と刻まれた記念碑が文化年間に建った。ちょうど私たちが訪れたときには、この記念碑のまわりを地元の人々が清掃していた。すぐ近くには、観光客が憩えるようにと、休憩できる場所も用意してある。そこに地図が掲げられていたので、Mくんと一緒に眺めてみたが、ふと、
「司馬遼太郎ゆかりの家」
と書かれていることに気づいた。この塚の五軒、東隣の家である。どうやら気づかずに行きすぎていたらしい。たしかに、司馬さんはかつて母親の実家があった奈良県当麻町の集落に預けられていた、と読んだことがあるが、その場所がこの竹内街道沿いにあるらしい。
清掃作業をしていた地元のご婦人たちに尋ねてみると、その家は河村さんといい、今は司馬さんのいとこにあたる人が住んでいるという。
「以前は古いお家でしたが……」
と残念そうにいわれたのは、最近になって家が建て直されてしまったからで、司馬さんが慣れ親しんだ家は今は残っていない。
それでも竹内街道に司馬さんが住んでいたという事実に変わりはなく、よって竹内街道はますます素敵な街道のように思えた。Mくんも同じことを思ったらしく、そこにいたご婦人に、
「すごいところにお嫁に来たんですね。竹内街道の嫁ですね」
というと、竹内街道の嫁は笑いながら、
「でも、大変です、おつきあいが……」
とだけいった。
河村さんのお宅は、たしかに新しく、門構えも立派な家であった。それにしても、門を出るとそこは日本最古の官道だというのも贅沢な話である。後年、その事実を司馬さんはきっと誇りに思っていたにちがいない。そして、日本最古の官道を国宝にすべき、というその気持ちも、実はその大半が氏の故郷を思う気持ちであったのではないか。
竹内街道を西まで上りきると、国道一六六号線に合流する。本来ならここですぐに引き返せばよいのだが、私はMくんにさらに西へ行くよう促した。この先に、司馬さん思い出の池があることを私は知っていた。
「上池」
という。司馬さんがまだ小学生だったころのことである。
「海ちゅうのは、デライけ?」と、なかまの子供たちか
らきかれたことがある。(中略)「デライ」と、断定する
と、(中略)子供たちはさらに、「カミの池よりデライ
け」ときいた。私は比較の表現に困り、「むこうが見
えん」というと子供たちは大笑いし、そんなアホな池
があるもんけ、と口々にののしり、私は大うそつきに
なってしまった。
(司馬遼太郎著『街道をゆく 竹内街道』より)
当時の竹内の小学生にとって、上池はそれほど大きく尊い池だったにちがいない。
池にはすぐに到着した。上池は灌漑用のため池であるが、その土手がいかにもきれいに整備されている。緑の草が青々と茂り、ところどころに曼珠沙華の赤い花が見事に咲いている。草の緑、花の赤、空の青、そして雲の白がおのおのくっきりとしており、思わず写真を撮りたくなるような景色をつくりだしていた。
池はそれほど大きくはない。何ということのない池であるが、私は司馬さんの昔話を知っているだけに、やや感傷的な気分になった。
ふと、今来た道のほう、つまり東の方角を眺めてみた。竹内街道をずっと上ってきたので、上池のあたりはかなり高台ということになる。よって、奈良盆地がはるか先に見えたが、かなり見おろす感じになっている。よく見ると、畝傍山が彼方に望める。司馬さんは日々、二上山と畝傍山を見て育ったことになる。
そういったことが氏ののちの人生にどのような影響を与えたのかは、はっきりとはわからないが、しかし歴史を常に考えようとする精神をいかばかりか養ったことは容易に想像できる気がした。(つづく)
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