竹内・葛城のみち A

  
               大津皇子墓


 金剛山地のうち、二上山と岩橋山のあいだを国道一六六号線が東西に走っている。ちょうど金剛山地を一六六号線で乗り越えるかたちになるが、乗り越えるときに通過するのが、
「竹内峠」
 である。奈良県と大阪府の境であり、交通の要所でもある。古くは大和朝廷を形成した勢力が河内からこの峠を越えて大和に流入し、一大勢力を築いたかもしれず、だとすれば同時に鉄も峠を越えた可能性が高い。記録に残っているところでは、江戸時代に松尾芭蕉や吉田松陰、天誅組を指揮した中山忠光などもこの峠を越えている。
 私たちはその峠を車で越えた。越えてすぐのところに二上山登山口がある。そこから二上山に登ろうというわけである。
 二上山は、雄岳(標高五一七メートル)と雌岳(同四七四メートル)の二つの山から成る。奈良盆地から見ると、右が雄岳、左が雌岳である。トロイデ型火山であり、約二千年前までは噴火活動をしていた。

 二上山といえば、必ず『万葉集』の話となる。
 七世紀末、飛鳥の都に君臨したのは天武天皇だった。彼は天皇の権力の制度化に尽力した人物で、天皇の地位を確立した人といってもよい。そんな強大な権力を誇った天武にも悩みの種があった。後継者問題である。天武には有力な後継者たる息子が二人いた。ひとりは、
鵜野皇女(のちの持統天皇)を母にもつ草壁皇子、もうひとりは、大田皇女を母にもつ大津皇子である。大田皇女と鵜野皇女は姉妹で、姉は大田皇女のほうだった。つまり、天武の皇后となるべきは大田皇女だったが、大田皇女は若くして亡くなっていたため、よって皇位継承の順位が微妙となっていたのである。
 結局、天武は草壁皇子を正式に皇太子とした。が、それでも大津皇子の信望の厚さは、草壁皇子や鵜野皇后にとって脅威だったにちがいない。
 朱鳥元年(六八六)九月九日、天武天皇は死去する。このとき、国政の権限を委ねられたのは鵜野皇后と皇太子・草壁皇子で、一方の大津皇子は翌月、何と謀反の罪で刑死している。
 もう少し詳しく書けば、謀反は十月二日に発覚した。密告者は、天智天皇の皇子・川島皇子とされている。その翌日、大津ははやくも死を賜った。二十四歳だった。妃の山辺皇女は髪を乱し、裸足で走り出て殉死し、それを見るものはみなすすり泣いたと『日本書紀』にはある。皇子の屍は最終的には二上山へ葬られた。
『万葉集』に、この史実に関する歌が二首、収められている。まずは大津皇子の辞世の歌で、

  百伝ふ磐余の池に鳴く鴨を
  今日のみ見てや雲隠りなむ

 というもの。磐余池で鳴く鴨を見るのも今日が最後で私は死んでゆく、というのである。磐余池というのは現在の桜井市内にあったとされているが、はっきりした場所はわからない。現在は、桜井市内にある吉備池というため池の土手に、この歌の歌碑が建てられている。私は一度、この場所を訪ねたことがあったが、その日はちょうど朝からしとしとと冷たい雨が降る日で、池の土手から望めるという二上山の姿もまったく見ることができず、ひたすら寂しい気持ちになった。
 それにしても、天武が死去してから大津皇子の刑が執行されるまで一ヶ月経っていない。まさに電光石火といえる刑の執行だが、これは何やらを疑わざるをえず、研究者の多くは実際、これは鵜野皇后の策略であったと考えている。だとすれば、大津皇子はきわめて悲劇的な人物であり、ゆえに二上山は悲しみを帯びた山とならざるをえない。
 二上山の悲しみを決定的にする歌が、『万葉集』にあるもう一つの歌である。

  うつそみの人にある我れや明日よりは
  二上山を弟背と我れ見む

 大津皇子の姉・大伯皇女の歌で、弟は遠い世界に行ってしまったので、この世にいる私は明日から二上山を弟と思って眺めましょう、という意味である。何とも悲しい歌で、ひとたびこの歌を知った者は、二上山を見るたびに大伯皇女と同じように大津皇子を思い浮かべるにちがいない。

 二上山の登山口には駐車場やレストランがあり、思いのほかにぎやかであった。私たちはペットボトルのお茶やわずかばかりのお菓子をもち、意気揚々と登りはじめたが、しばらく続くアスファルトの道は途中から急激に坂が急になり、場合によっては走って駆け上がろうと思っていた我が心をはやくも萎えさせた。こういう場合は地道に歩みを進めるしかなく、Mくんと周囲に咲く花についてしゃべりながら、ときにすれちがう登山者にも話しかけながら登っていった。山道は途中からアスファルトでなくなり、山道らしくなった。
 道中、思ったより小学生以下の子供たちが多いのには感心させられた。小学生たちにとってこの山道はなかなか難儀であると思われるが、楽しそうに登っていく姿を見ると、かえって我々のほうが早々と疲れてしまっているのかもしれないと思えた。
 山道はときに急になり、ときになだらかになった。私たちは雌岳を通りすぎ、ひたすら雄岳をめざした。雄岳には、大津皇子の陵がある。
 思ったよりもはやく雄岳山頂に到着した。山頂には社があった。
「葛木二上神社」
 という。少しは雰囲気のある神社かと思ったが、周囲を人工的な白壁に囲まれていて、趣というものが微塵もなかった。
 さらに先に数十メートル行くと、大津皇子の陵にたどり着く。小高い盛り土の上には木々がおおいしげっており、その点は多くの古墳の雰囲気と変わらない。ただ、皇族の墳墓だけに周囲には柵がこしらえてあり、中に入ることはできない。
 ここに実際に大津皇子が眠っているかは、はなはだ疑問ではある。というのも、最近の研究で、二上山の麓に真の大津皇子の古墳らしきものが発見されている。鳥谷口古墳という。 飛鳥の発掘で著名な河上邦彦氏によると、飛鳥時代の古墳が山の頂上にあるはずはないという。宮内庁が山頂を大津皇子の墓と指定したのは、おそらく明治時代であろう。『万葉集』に「二上山に移し葬る」とあったことから、「山=山頂」ということになり、定められただけのことであるにちがいない。
 しかし、である。やはり大津皇子の葬られた場所は、二上山の山頂であるほうがしっくりくる。事実は山麓であったとしても、何となく山頂に葬られていてほしいような気になるのは、私だけではないと思う。
 いずれにしろ、山頂の大津皇子の墓は決して消えることはない。宮内庁は皇族関係の古墳を調査することをいかなる目的であろうとも許可しておらず、よって大津皇子の墓はいつまでも(宮内庁の方針が変わらないかぎり)二上山の山頂であり続ける。
 残念ながら、雄岳から眼下の奈良盆地を眺めることはほとんどできない。前方に木々がしげり、視界をさえぎっているのである。見晴らしがよいのはどうやら雌岳らしいと気づき、私たちは雌岳をめざすことにした。雄岳から馬の背とよばれる尾根をわたって雌岳へと行くのにそれほど時間はかからなかった。
 雌岳の山頂はにぎやかだった。人々がたくさん集まり、多くの人が弁当を広げていた。中央には大きな日時計があり、その周囲に座る場所が設けられている。
 眺望はなるほど素晴らしい。東には奈良盆地が広がり、西には大阪平野、そしてその先の大阪湾まで見晴るかすことができた。
 私たちは迷うことなく東を向いて腰をおろし、お茶を飲んだ。
 美しい風景である。手前には畝傍山・耳成山などが見え、はるか先には笠置山地が連なっている。
 ここから見ると、日本というのは実に美しい山国なのだと実感できる。その山間に緑豊かな平野が広がっている。おもしろいのは背後の大阪側とのちがいで、双方は景色の様相がまったくちがっている。大阪側にはビルの乱立がはっきりと見られ、そこには趣というものがない。奈良盆地はそうではない。何やらしっかりと落ちついているのである。醸し出すものがちがうといってもよい。この地に日本最初の王朝が誕生したというのも素敵な事実と思えてならない。
 この日は天気もよく、白い雲も一段と美しく見えた。雲は南へとゆっくり動いていった。その雲の低さ加減が何ともいえずよく、その下に広がる奈良盆地が神の土地であることを感じさせた。

 下山の道は、行きとはちがう道を選んだ。かなり険しい岩道だったが、その途中に、
「鹿谷寺跡」
 というものに行きあたった。岩だらけだったのが嘘のようにその場だけ平らに開かれており、右手には石でできた塔があった。数えてみると、十三重塔だった。
 かつてこんなところに寺があったとは考えにくかったが、どうやらここは飛鳥時代の石切場だったらしい。採石の終わった奈良時代に多少の手を加え、寺院の体裁にしたというのが真実のようである。しかし、ここも雰囲気が悪くない。この地は昭和二十三年に史跡に指定された。その理由は「小規模ながらも他に類例をみない大陸の石窟寺院の趣を伝える奈良時代の重要な寺院跡」ということらしい。実際は石切場をリフォームしただけのことなので、
大陸の石窟寺院の影響を受けた寺院とはいえないのであろうが、大陸の雰囲気をわずかながら空想できたのは楽しいことであった。(つづく)