竹内・葛城のみち B

  
               一言主神社


 竹内街道を歩き、二上山を登ったあと、昼食をとった。
「すしぜん」
 という店に入ってみたが、これがなかなかおいしい店だった。もともとは寿司屋だったのだろうが、今の風体は創作料理店である。味もさることながら、葛城山を眺めながら食べるというのもなかなかおつなものであった。
 食べながら、この先のことを考えた。ここまで来たのであれば、ぜひとも、
「葛城古道」
 を行かねばならないであろう。
 葛城の歴史も古い。葛城王朝という言葉があるが、これは天皇家よりも古いと考えて差し支えない。その勢力が後年、大和国家というべき勢力に従わざるをえなくなり、ついに日本史の主役にはなりえなかった。
 しかし、その歴史の古さゆえ、今日でも葛城の地には多くの神社や古墳が存在し、かつての繁栄を思わせる。その葛城を北から順に巡ろうと思った。

 私たちはまず笛吹神社を訪れ、そのあと九品寺に赴いた。その双方に共通していたことは、どちらもかなりの高台にあったということである。これはまことに重要なことで、たとえば笛吹神社であれば、おそらくは笛吹連(笛を吹いて大和朝廷に仕える者たちのリーダー的存在)が小高い台地に館を築き、氏神を祀るために社をこしらえた、という感じであろう。高い場所というのは軍事的に見てきわめて有利だが、そういう観点から高台を利用したことはほぼ間違いない。
 そういった意味では、
「一言主神社」
 も見事に高台にある。
 一言主神社は、正式名称を葛城坐一言主神社といい、延喜式にも載る名社である。葛城土着の神である一言主神を祀り、地元の人々からは、
「一言さん」
 とよばれて親しまれている。「一言」の由来は、一言主神が善きことも悪しきことも一言にて託宣することからきている。
 私たちは一言主神社に向けて車を走らせた。県道三〇号線をまっすぐに南下すると、途中、一言主神社の看板があり、左折となっていた。その道を左折して下り終えると、そこには落ちついた杉並木が続いていて、すぐに一言主の参道であることがわかった。
 杉並木の傍らに車をとめ、しばし杉並木の見事さに見とれていると、参道の先から何やらにぎやかな音が聞こえてきた。
「あっ、おみこしだ」
 とMくんが叫んだ。
 あとで聞いたことだが、Mくんはこのおみこしを見た瞬間、一言主で何やらよいことがある気がして胸が躍ったらしい。
 おみこしは子供みこしで、十数名の子供がハッピを着て、数名の大人とともに声をかけながらみこしを担いでいた。一番元気な声を出していたのは先頭の男性で、そのかけ声が私にはどうにも、
「ワーッショレ」
 に聞こえた。それにあわせ、子供たちも、
「ワーッショレ」
 と声をあげる。この地方独特のかけ声なのかもしれない。
 こぢんまりした石造りの鳥居をくぐると、目の前に石段が見える。なるほど、境内は高台にあることになる。その石段を登りきると、そこは思ったよりもうんとせまい境内になっていた。中央に落ちついた雰囲気の、いかにも奈良の古社といった風情の拝殿が鎮座し、左手には有名な銀杏の木があった。
「乳銀杏」
 ともいう。その名のとおり、幹の一部が細長い乳房のようにいくつも垂れ下がっており、一見奇態だが、樹齢千五百年を越える老木ということを思えば、どのような形態をしていようとも、敬意を表したくなってしまう。それにしても上に行けば行くほど太くなるという木も珍しい。その割に葉はやや小さいようにも思える。十月も初旬であり、まだまったく色づいていないが、これが秋も深まれば小さな葉すべてが黄色に染まる。それがはらはらと下へ落ちる様は、古社の趣をさらに味のあるものにするだろう。
 しばらく境内の真ん中にたち、Mくんと話しながら乳銀杏の写真を撮っていると、拝殿の奥から宮司らしき方が下りてこられ、私たちを含めた観光客に声をかけられた。
「今日の神様に食事を差し上げるお箸なんです。よろしかったらどうぞ」
 といって、おもむろに配りはじめたのは、長さ三十センチ以上もある薪のような白い木の棒であった。箸というだけあって、ひとりに二本ずつ配っている。それを見てMくんも宮司らしき方に手を伸ばし、箸をいただいていた。天然の木の皮を剥ぎ、そのまま箸に仕立てているため、それは大きく曲がったりしているが、表面はつるつるとしてきれいな木肌をしている。一体何の木なのだろうと思ったが、そう思ったのを察したのかどうか、宮司らしき方は、
「かつては漆の木を使っていました。でも、びっくりしなくてもいいですよ。今は地元の朴でつくっています。吉野では朴葉で寿司をつくるんです。その朴です」
 と教えてくださった。果たしてこの方は宮司なのかどうか。
 かつて司馬さんが『街道をゆく』でこの神社を訪れたおり、対応したのが当時の宮司・伊藤二郎氏だった。後日、NHKで放送されたテレビ版『街道をゆく』では、二郎氏のご子息・憲司氏が禰宜として出演している。
 ただ、この方はどう見ても憲司氏ではない。似ていなくもないが、顔のかたちが決定的にちがう。かといって、年代的に二郎氏であるはずもなく、それが私とMくん共通の疑問となった。こういう場合、Mくんの行動力がものをいう。
「聞いてみるのがいいね」
 というがはやいか、近くを通りかかった社の関係者の女性を質問攻めにした。
 女性の話によると、この方は昨年までは宮司を務めていらっしゃたようで、憲司氏の兄にあたる方らしい。
「名誉宮司ですね」
 とその女性は微笑んだ。新宮司は憲司氏だという。私たちはやっとのことで納得した。
 しかし、Mくんは名誉宮司と直々に話をしないとすまなかったようで、忙しく拝殿と本殿とのあいだを行き来している氏に果敢に話しかけた。
 名誉宮司は、いたく気さくな人物であられた。顔は、テレビで見た弟君とはちがって面長だが、こまかくいえば五角形で、あごがよく発達していて、頭髪が強い点は、典型的な大和顔といって差し支えない。
「今日も明日もこの辺一体はみなお祭りでして。ですから、宮司(憲司氏)は今日も明日も留守です」
 そういった手には、お祓いに使う祓い棒がもたれているが、その大きさが尋常ではない。棒は直径十センチもあるような竹をそのまま使っており、長さも氏の身長をはるかに超えている。先にはやはり紙垂が幾重にも垂れているが、それもまた大がかりである。紙垂の色は白と紫の二色である。その祓い棒を氏は抱えるようにもっている。おもしろいことに、紙垂にまぎれて同じ紫の紙でできた巾着袋のようなものがぶら下がっている。
「これは『ふぐり』といいます。中にはお米が入ってます。新米よ」
 とおっしゃったかと思うと、氏は何とそのふぐりをこよりごと取りはずし、Mくんに差し出して、
「他言せずに」
 と笑われた。神米を下賜され、思いもよらぬことに我々が恐縮しきっていると、氏はさらに、
「これも何かのご縁と思いますから」
 と今度は社務所に入っていかれた。しばらくすると、手にビニール袋をもって現れた。中には蒸した米が直方体に固められたものが二個入っていた。
「これは清盛という御供です。ほぐして鍋に入れて煮てください。今は蒸してるだけですから」
 きっとMくんの真摯な姿に、氏が情けをかけてくださったにちがいない。
 氏は、さきほどの紙垂の色についても教えてくださった。
「あの紫はツルムラサキの実を煮たものです。いい色でしょう」
 そういいながら、氏はいつの間にか手にもっていた煙草を吹かされた。
「宮司が居ったら、怒られるやもしれん」
 とおっしゃったのは、どこの誰かもわからぬ者におさがりをつぎからつぎへと与えられたことをいったのか、それとも拝殿の袖で煙草を吹かしたことをいったのか。ともかく最後も、
「これもご縁ですから」
 と笑いながら、奥へ入っていかれた。
 私たちはしばし、その場に立ちすくんでいた。二人とも、この伊藤氏を通じて一言主の神に接したような気になったのかもしれない。しばらくして私が、
「Mくん、行きましょうか」
 といっても、珍しくMくんは返事をしなかった。もう少しこの小さな境内での出来事に浸っていたかったのかもしれず、ならばと私もそれにしばらくつきあうことにした。

 一言主神社は、葛城山系の麓にある。よって、日暮れがはやく来る。時間の割にあたりがはやくも薄暗くなりはじめたのはそのせいであろう。
 近くでカラスが鳴いた。
 葛城のカラスは日暮れがはやいことを恨めしく思ったりはしないのだろうか、とふと思ったりした。(完)