若 草 山

  
         若草山から東大寺大仏殿をのぞむ


 奈良公園を歩いていると、どうも東の方が気になって仕方がない。奈良公園の東には比較的低い山が連なっているが、ある一帯のみ木々がしげっていなく、山の表面が青々とあらわになっている。若草山である。
 若草山は三笠山ともいう。山麓から見るだけではよくわからないが、実は山が三つ折り重なっているのである。標高が三四二メートルある。私はよく奈良公園を訪れるが、そのたびに若草山に目を向け、山の斜面を修学旅行の小学生たちが元気に走りまわっているのを見ると、何となく自分まで登りたくなってしまう。
 そして先日、私は奈良国立博物館の「正倉院展」を見に行ったのだが、そのあと時間にゆとりがあったので、はじめて若草山に登ってみることにした。

 若草山に登るには、麓のゲートでわずかばかりの入山料を払う。その先には例の青々とした斜面が広がっている。この斜面が見た目どおりに急である。この日もいつものように小学生たちがたくさん来ていたが、私はその様子に感心させられた。こんな急な斜面を平気で上り下りしている。そのうち何人かはものすごいスピードで走って下りている。見ているこちらの方が心配になってしまうが、やっている子供たちは心得たもので、決してヘマはやらない。斜面をゆっくり登りながら子供たちの様子を眺め、私は実に楽しい気分になった。
 子供たちがにぎやかに走りまわっているのは、「三笠」の一つ目の笠である。その奥に残り二つの笠がある。せっかくなので、そこまでめざすことにした。
 その道が予想を超えてつらかった。二つ目の笠までは、傾斜が急であるのに階段もなく、思いのほか苦戦した。二つ目の笠からは、東大寺を真東から見おろす感じになり、大仏殿の様子がよく見えた。
 その先も、それほど急ではないが山道がつづいた。ひたすら登り、やっとのことで山頂に到着したが、そこにも鹿がいたのには少し驚いた。
 山頂には何と、古墳があった。鶯塚古墳という。清少納言の『枕草子』にも記述されているほどの古墳で、日本で最も高所にある古墳だという。軸を南北に向けた前方後円墳で、全長は一〇三メートルもある。四世紀末に造られたというが、山頂にこのような大規模な古墳を造ったとは驚きである。
 頂上からは奈良盆地の景色が一望できた。しかし、頂上付近に古都の名山としての趣はさほど感じられず、若草山は登るよりも下から眺めたほうがはるかに素晴らしい山であることがわかった気がした。

 その日の夕方、私は平城宮跡へと足を運んだ。日はもう西のほうに傾いており、世界文化遺産である宮跡は斜陽を受けてより広々と見え、寂しさを感じさせた。
 第二次大極殿跡のあたりは基壇が復元されている。私はその基壇の柱の跡にすわり、しばらくその雰囲気を感じていた。
 同じ基壇の階段に女子高生がひとり、すわっていた。どうやら英単語帳を開いているらしい。基壇の西は第一次大極殿のあったところだが、そこでは五、六人の男子が野球に興じている。
 ふと、はるか東を見はるかした。そこには、数時間前に登った若草山が見えた。
 そして、いつの間にか南の空には高々と月が出ていた。綺麗な半月であった。
 そのとき、ある歌を思い出した。

  天の原 ふりさけ見れば 春日なる
  三笠の山に 出でし月かも

 百人一首にある安倍仲麿(六九八〜七七〇)の歌である。
 仲麿は十九歳で遣唐留学生として唐にわたり、大学に入った。のち秀才ぶりを買われ、唐の役人となり、玄宗皇帝にも仕えた。
 五十四歳になってついに帰国を決意した仲麿に、友人たちが送別の宴をひらいた。歌はその席で詠まれた。この月は、故郷の春日にある三笠山に上ったあの懐かしい月なのだ、というわけである。
 ところが、不運なことに仲麿の乗った船は航路なかばで嵐に遭い、一行は安南(現在のベトナム)に流された。その後、長安に帰ることはできたが、仲麿はとうとう死ぬまで日本に帰れなかった。
 私が見ている若草山と月との組み合わせを、仲麿は異国の地にて故郷の象徴として思い出した。その光景を仲麿は二度と見られなかったわけだが、その無念さはいかばかりであったろう。そんなことを考えると、ますます寂しさがつのる宮跡であった。

 先ほどの女子高生が帰り支度をはじめた。いつの間にか、単語帳を見るには暗すぎる時分になっている。
 野球の声だけが響く中、私は何となく、若草山が闇の中にとけこむまで見ていたくなった。それほどの魅力を、若草山は十分に持ちあわせている。