宇 治 川

  


 宇治の歴史は、宇治川の歴史である。
 古代から中世にかけて、宇治の西側一帯には巨椋池というとてつもなく大きな池が存在した。現在の行政区画でいえば、伏見区の西半分はこの池だったのであり、琵琶湖から巨椋池に流れ込むのが宇治川であった。
 永承七年(一〇五二)、宇治川がちょうど巨椋池に流れ込むあたりに藤原頼通が平等院をつくった。もともとは父・道長の別荘があった場所である。
 平等院といえば鳳凰堂が有名だが、この阿弥陀堂は創建当時、実に鮮やかな朱色をしていた。現在の鳳凰堂の古色からは想像しにくいが、その名のとおり、赤々とした鳳凰が宇治川に向かって翼を広げて飛び立たんとしているようなようすであったにちがいない。
 この平等院が建てられた場所は、地理的に見て交通・軍事の要所であった。つまり、平安京から京都盆地を南下しようとすれば、おのずと巨椋池にぶつかり、どうしても迂回を強いられる。しかし、西へと迂回すれば、その先を淀川がさえぎることになる。当時の淀川はかなり川幅があり、渡ることはかなり難儀であったはずで、よって多くの場合は東へと迂回するであろう。その先が宇治で、要するに京都の勢力が南下する場合、多くは平等院のあたりを通過することになる。
 以上の地理的な話はあくまで私の推測なので、誤っているかもしれない。しかし、実際に平等院付近では、その要所ぶりを示すかのように平安時代から鎌倉時代にかけていくつかの戦乱が起こっている。
 治承四年(一一八〇)年、平清盛の横暴に業を煮やした源頼政が、後白河法皇の皇子・以仁王をいただき、平等院に立てこもって平氏と戦った。頼政は何と七十四歳という高齢だった。結局、敗れた頼政は平等院内で自害し、以仁王は大和へ落ちようとしたが、道半ばで戦死した。現在、頼政の墓が平等院に残っている。
 寿永三年(一一八四)年には、同じ場所で木曽義仲と源範頼・義経が宇治川をはさんで対峙している。このときの有名な故事が「宇治川の先陣争い」である。
 そのとき、宇治川にかかる宇治橋は、義仲によってその橋板が取りはずされていた。川底には、杭をうってそれに大縄を張って防御がなされていた。さかまく水流もはやかった。そんな状況の中、義経の家来だった佐々木高綱と梶原景季が川を馬で渡り、先陣争いをした、という話である。
 このとき、馬上の高綱は同じく馬上の景季に、
「この川は西国一の大川でござるぞ、腹帯がのびて見える。締めたまえ」
 というようなことを叫んでいる。実はこれは高綱のはかりごとであって、この言葉に気を取られた景季は結果的に負けるのだが、おもしろいのは宇治川のことを「西国一の大川」と称していることである。もちろん過分な表現だが、宇治川が当時としてはかなりの大川だったことがわかる。

 私が宇治川をおとずれた日は、朝からあいにくの曇天であったが、それでも川の両岸の林は赤や黄に紅葉し、さすがに京都らしい趣を感じさせていた。
 平等院を見た私は、そのまま宇治川を渡って対岸に行こうとした。そのときに、私は現在の宇治川の流れを見た。
 流れは、思ったよりもはやかった。ところによっては、ごうごうと音を立てて流れがうずまいており、鴨川や桂川のような流れを想像していた私にとって、それは意外なことであり、何となくうれしいことでもあった。
 先陣争いの故事からは八百年もの年月が流れているので、当時とは様相がちがっていてもおかしくはないが、故事を知っている者にとっては、宇治川の流れははやいというイメージがある。それが損なわれることはあまり気分のよいものではなく、イメージがくずれることをかろうじてまぬかれたという点において、私はうれしかったのである。
 宇治川には、平等院鳳凰堂や『源氏物語』のいわゆる宇治十帖といった、平安のゆるやかな歴史のイメージも似つかわしいかもしれないが、私にとっては先陣争いに代表される戦乱の中にある宇治川のイメージも捨てがたい。そういった思いで、かつて木曽義仲が橋板をはずしてしまったという宇治橋の欄干からしばらく川の流れをながめておれば、そのはやさに月日の流れのはやさをも連想することができた。さらには、
「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず」
 という鴨長明の『方丈記』の一節をもちだすまでもなく、世のはかなさはいつの世も同じであるという普遍の原理までもが頭を駆けめぐるような気になり、何ともいえぬ心境になった。
 そんな折、遠くからにぎやかな人々の声が聞こえてきた。平等院の表参道の喧騒であった。宇治といえば、いわずと知れたお茶どころである。それを売る店が参道にはひしめきあっていて、その前に観光客があふれている。いつもはわずらわしいとしか感じないそういった喧騒が、この日ばかりはほっとするような気分にさせたのはどうしたことであろう。