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大野寺磨崖仏
奈良県室生村にある室生寺は、かつて「女人高野」と称され、有名であった。その室生寺から北西に数キロ行ったところに、大野寺がある。寺の名前としては、さほど世間には知られていない。その証拠に、私が訪れたときも観光客は皆無であった。
しかし、この寺は実に素晴らしいものをかたわらに蔵している。
「磨崖仏」
である。かつて写真家の入江泰吉氏が、この磨崖仏をさかんに撮影していた。あるとき、その撮影に同行した白洲正子氏が、しだれ桜を通して撮影された磨崖仏の姿に感動し、この角度を発見するまでにどれほど大野寺へ足を運んだかを尋ねてみると、入江氏は、
「今年で三十年になります」
と平然といいはなったという。入江氏のすさまじい創作意欲(あるいは執念といったほうがよいかもしれない)もさることながら、その入江氏を三十年も虜にしつづけた磨崖仏とは、一体どのようなものなのか。きっと、それはわが国でもっとも壮大で美しい仏さまであるにちがいない。
そう信じ、車で宇陀の山中に分け入っていった。はじめて行く道であるのに、山の感じが何ともいえず懐かしい。同じ感覚を談山神社への山道にも感じたことがあったが、こう思わせるのは奈良の山ならではのことかもしれない。
ふと車が渓流へと突き当たった。直感的に、そこにこそ磨崖仏がおわしますことがわかった。
たしかに磨崖仏は、そこに立っていた。大野寺の正面である。寺と石仏の間を渓流が隔てている。そのせせらぎの流れはゆるやかだが、石仏の前だけは音を立てていた。その音が妙に心地よい。
磨崖仏は、鎌倉中期の作とされる。高さ三十メートル近い岩壁を垂直に削った面に、線によって刻まれている。弥勒仏の立像で、仏身の高さは約十二メートルある。破壊されて有名になったバーミヤンの石仏は、その立体感に凄味があったが、この磨崖仏はその点、この上なく平面的である。しかし、ゆえにひかえめで嫌味がまったくなく、奈良の山中にはこれこそふさわしい、と思わせた。
壮大、という感じはなかった。とにかくそのおとなしい雰囲気に私は好感をもったが、石仏自体はおとなしくとも、それをこしらえた人々の思いは相当なものであったにちがいない。何せ規模の大きな仕事である。その困難さは容易に想像できるが、それを成し遂げた人々の思いの深さと達成感を現代人の私も理解したいと思った。
それにしても石仏の姿は、線が薄くてかなり見づらい。この石仏の詳細を見たいのであれば、おそらく入江氏が使用したような望遠レンズを通して見るしかないのであろう。おまけに、この日の天候も悪かった。この日は朝から曇天で、日光が岩肌にほとんど当たらず、刻まれた線が浮かび上がる瞬間がなかった。肌寒い中、その石仏はひたすらひかえめに、その存在をひたかくしにしているかのようであった。
しばらくして、私はあることに気がついた。この石仏の周囲の空間美について、である。石仏自体の素晴らしさはいうまでもないが、その周辺の雰囲気のよさも感じずにはいられなかったのである。
石仏が刻まれている岩壁は、緑の木々に覆われている。石仏の足元には、色づいた落ち葉が無数に散りばれられている。きっと数週間前には、紅葉が見ごろであったと思われる。その向かって左手は、大きくひらけている。岩壁も木々も何もなく、ひたすら地面に岩肌が広がっている。そのすぐ近くを、渓流がゆるやかに流れていく。
これらの全体を遠目からながめてみると、何となく自然の庭園であるかのように見えてくる。リアルな枯山水といってもよい。この雰囲気を醸し出しているのは、石仏の大きさと、その左手にひらけている空間とのバランスのよさである。もし、この磨崖仏を設計した人物が、空間美というものを意識して仏さまを配置したとすれば、芸術家として並々ならぬ感覚の持ち主であったといってよい。
「向こう岸へ渡ってしまいたい……」
思わず私はその空間へと足を踏み入れてみたくなった。よく見ると渓流は、場所を選びさえすれば、渡れてしまえるほどの幅しかない。
しかし、ここは渡ってはいけないのであろう。きっと磨崖仏の設計者は、仏さまを意識的に川の向こうへ配置したはずで、つまり向こう岸は「彼岸」である。彼岸とはこの場合、弥勒の浄土であり、その結界線として川を配したというのが妥当な見方といえる。
そう考えれば、たしかに磨崖仏は近寄りすぎてはいけない存在であるように思えてくる。だからこそ、入江氏もひたすら対岸から磨崖仏を撮った。磨崖仏は、対岸からこそ見るべきものなのである。
ただし、見る季節は選ばれよ。訪れるのは春か秋がよい。入江氏の写真が、磨崖仏を桜や紅葉を透かして見ることの贅沢さを人々に教えてくれている。
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