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紀州九度山の真田庵
昨年の夏、アメリカ人の友人と高野山にのぼりました。のぼったといっても車で行ったのですが、これが実に長い道のりでした。奈良盆地に出るまでは大したことないのですが、そこから先が長いのですね。地名でいうと、五條・橋本あたりです。ちょうど中央を紀ノ川が流れていました。
高野山の入り口は高野口といいますが、そこまで来て私はあることを思いつきました。
「そうだ、真田庵に寄ってみよう」
関ヶ原の合戦で全国の大名が東西にわかれて戦いましたが、まれなケースとして父子兄弟が東西わかれて戦った、という一族があります。真田家がその典型です。
信濃の小大名だった真田昌幸は、子・幸村とともに西軍についたのですが、幸村の兄・信之は東軍につきました。これにはいろいろ事情がありまして、単純に、
「どちらが勝っても一族が残るように」
という理由からとはいいきれません。ちなみに、信之は東軍・本多忠勝の、幸村は西軍・大谷吉継の娘をもらっていました。
結局、関ヶ原の合戦は東軍の勝利に終わりました。昌幸・幸村父子は負けたことになりますが、実は本人たちは、地元上田の戦いにおいては徳川秀忠の軍をさんざんに蹴散らしておりました。自身は勝ったものの、肝心の石田三成は負けていた、というわけです。
戦後、昌幸・幸村父子の命は際どいものとなりました。二人が直接戦った秀忠はその後、関ヶ原に合流したのですが、すでに戦いは終わっていました。真田父子の奮闘で秀忠は本戦に間に合わなかったのです。
家康に叱咤され、大恥をかいた秀忠は、絶対に真田父子を許そうとはしませんでした。想像を絶する恨みだったようです。そこで助命嘆願に奔走したのが、信之とその義父・本多忠勝でした。
結局、昌幸らは高野口にある九度山に流されることになりました。その蟄居の地が今に残る真田庵です。ここは現在、当時とはちがって、
「善名称院」
という尼寺になっています。
私どもは地図をたよりに、細い道をいくつか折れていきました。その先に真田庵は、高野山麓に抱かれるようにしてありました。
まわりは見事な白塀に囲まれていましたが、それは庵の品位をまったく損ねないもので、私には好感がもてました。
白塀の中央に立派な門構えがあり、間口が大きくあいていました。中に入ると、正面に黒く小さな隅櫓を思わせる寺の建物がありました。この建物自体はどうということはありません。その手前に小さな墓がありました。真田昌幸のものでした。
この地に蟄居させられた二人は、辛抱強く日々を過ごしました。当然、徳川の見張りがついていたので、勝手なことはできません。そんな中で昌幸は、
「きっと十年後、もう一度、関ヶ原が来る。それまでは何としても生きておらねば……」
というようなことをいっておったようです。
そんな執念をもっていた昌幸でしたが、蟄居からちょうど十年後、この地で亡くなりました。享年六十五歳。
その三年後、昌幸のいったとおり、第二の関ヶ原ともいうべき大坂の役が起こり、昌幸の遺志を継いだ幸村が単身入城しました。その後、幸村は元和元年(一六一五)五月七日、家康の本陣に突入して戦死しております。
私はかつて、NHKドラマ「真田太平記」の大ファンでした。小学五年生のときだったと思います。このドラマでは、昌幸を丹波哲郎、幸村を草刈正雄が演じていました。そのときの丹波さんの演技が今も目に焼きついていますが、そのシーンと眼前の光景がだぶって、私は懐かしいような、やや切ないような、そんな感慨をもちました。
門の屋根の上に、綺麗な桃色の花が咲いていました。とてもかわいらしい花でした。この花が当時からこの地にあったかはわかりませんが、あったのだとしたら、この綺麗な花を昌幸はどんな思いで眺めたことでしょう。
それにしても、真田庵は高野山の懐の深さを実感することのできる、落ち着いた場所でありました。
「また一つ、素敵な歴史の舞台を発見した」
そんな気持ちにさせられました。
余談ですが、この旅行の一ヶ月後、丹波哲郎さんが亡くなりました。ご冥福をお祈りいたします。
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