興福寺五重塔


     


 その日は、若草山の山焼きを見ようと早朝から奈良入りしていたのだが、天候は朝から吹雪の様相を呈し、もしや山焼きは延期になるのではないか、と心配になった。
 心配は現実のものとなった。
 吹雪の中、とりあえず手近の建物に逃げ込もうとした私は、近くにあった興福寺の境内へと駆け込んだ(それにしても逃げ込み先が興福寺というのも実にぜいたくな話といえる)。本来ならそこで国宝の五重塔でもゆっくり写真に収めたいところだが、とにかく寒さから少しでも逃れたかったため、真っ先に東金堂に入った。その入り口の係の人から、
「今日の山焼きは延期になりましたよ」
 と聞かされた。
 堂内には、本尊の薬師如来坐像などが並んでいたが、そのときの私は、あまりの寒さに凍え、また、山焼き延期のことが残念で仕方なく、何も見る気になれなかった。
 吹雪はすぐには収まりそうもない。かといっていつまでもそこにはいられないので、寒さに立ち向かう意を決し、外へ出た。
 すぐに、やはりどうしても気になって、東金堂の南にそびえたつ五重塔を見上げた。
 五重塔は、いつものようにそこにあった。
 興福寺の五重塔は、黒々としている。そのまわりに雪が舞っている。ときに強風にあおられ、雪は塔をたたきつけるようにもなる。その雪の白さが、塔の黒さに映えて、さらに寒々しい。しかし、塔はひたすら重々しく、雪が動くゆえに不動感をより一層感じさせた。
 この塔はもともとは光明皇后の発願で天平年間に創建されたが、以後五度も焼失した。現存するのは室町時代の建築である。
 この塔についてまず思われるのは、
「よくぞ残った」
 ということである。
 明治維新は、今から思えば上出来であったと私は思っているが、神仏分離令だけはたしかに愚かだった。明治元年、政府は王政復古による祭政一致の立場から神道を国教と定め、古代以来の神仏混交を禁じた。以後十年以上、廃仏毀釈の嵐が吹き荒れた。全国の仏堂・仏像がつぎつぎに除去され、破壊された。興福寺も例外ではなく、廃寺同然になった。
 この時期に五重塔がわずか二十五円で売りに出された話は有名である。買い手は商人だった。最初は薪にしようとしたが、解体にかなりの労力が要るとわかり、今度は焼いて残った金目の金具のみを拾おうとした。しかし、それは危険だと近所の町屋から苦情が出た。結局、商人は塔を買うのをやめ、ついに塔は残った。
 そういったことを知った上で塔を眺めれば、その存在価値がより感じられるだろう。
 これもよくいわれることだが、興福寺の五重塔がやけに重々しいのは、逓減率の小ささによる。逓減率とは、上層へゆくにしたがって塔身が細くなる率のことをいう。たとえば、法隆寺はこの逓減率が大きく、一番上の屋根の幅は、下の初重の半分(面積では四分の一)になっている。塔の構造を上へゆくほど小さくちぢめてゆくようにすれば、はるかに天をめざすするどさが出るだろう、というわけである。一方、興福寺の五重塔はこのようでなく、各層ほぼ同じ大きさになっている。それで全体として重くなってしまうのである。どちらをよしとするかは美意識のちがいもあって一概にいえないが、私は、興福寺五重塔の重厚さは他のどの五重塔にもないものであり、極めて素晴らしいものだと思っている。
 目の前の塔が雪にさらされている。この姿も捨てがたく思え、どうにか写真に収めなくてはと思いなおし、凍える手で何度もカメラのシャッターを押した。吹雪にさらされ、全身が芯から冷えきってしまっている。それでも五重塔の美しい姿を撮らないわけにはいかなかった。
 撮りながら、次第に塔の真下へと進んでいった。下から眺めると、塔はいよいよ重々しかった。その重さに押しつぶされそうな感覚にもなった。それは歴史の重みでもあるにちがいなかった。

 そのあと、春日大社から新薬師寺・奈良市写真美術館をめぐり、そのまま奈良町へと戻ってきた。奈良町でいろいろな買い物をすませた私は、帰路につこうと駐車場へ向かう途中、再度、興福寺の境内を通過し、五重塔を見てみたくなった。
 日はもう暮れかかっている。そんな中、五重塔はわずかながらにライトアップされ、塔身が橙色に照らされていた。屋根は相変わらず重く、闇にのしかかろうとしていた。
 この塔をはじめて見たのは、小学校の修学旅行のときだった。十一歳だった私はそのとき、塔を見て足が浮き立つような感動を覚えた。
 あれから二十年。何度この塔を見てきたのだろう。しかし、何度見ても決して飽きることはなく、こうして闇に溶け込む間際までも見ていたいと思わせるのが、私にとっての興福寺五重塔である。