|
姉川古戦場にて
先日、近江の姉川古戦場を訪れた。三月中旬とはいえ、雪が舞い、底冷えのするような日だった。
私は、同行したIさん・Lさんとともに、鉄砲の産地として名高かった旧国友村を出て、そこからすぐ東にある姉川古戦場へと向かった。
Lさんはアメリカ人であるが、日本人以上に日本人らしい人で、常々、
「私は近江が好きなのです」
といっている。滋賀ではなくわざわざ近江というところにある種のセンスを感じる。その彼が、私が車を運転する横で、地図を片手に行く方角を指示してくれている。
その指示どおりに車を進めると、目の前に堤防らしきものが現れた。すぐに、その先が姉川であることが感じられた。
しばらく姉川の堤防を東へと走った。この先に野村橋という橋があり、その橋の傍らに、
「史跡 姉川古戦場跡」
と書いた大看板があるはずである。しかし、正確にいえば今、走っている堤防あたりもすべて戦場だったはずで、訪問者はすでにそういうことを敏感に感じなければならない。
どうやら姉川の岸は、薄でおおわれている。かつて司馬遼太郎さんはその薄を評し、「いかにも古戦場といった蕭殺(しょうさつ)とした気分がある」
と書いた。なるほど、古戦場とはこうあるべきものかもしれない。
しばらく行くと、例の看板が見えた。看板の近くに車が一台、止まっていたが、そこらあたりに人影はまったく見当たらなかった。
この時点で、私の気分はほとんど戦慄していた。
車を降りた一行は、すぐ近くにあった案内板を見たり、大看板を写真に撮ったりした。
ところがそのあと、IさんとLさんはすぐに車内へと引っ込んでしまった。雪をかすかに含んだ寒風が、強烈に姉川の堤防に吹きつけていたのである。
IさんとLさんの行動は、一般的には当然かもしれなかったが、私は居ても立ってもいられなかった。橋を渡り、その周囲を歩き回ることこそ、私がすべき唯一のことだった。
寒さに凍えながら野村橋を北から南へ渡った。つまりは浅井軍の陣地から織田軍のそれへと渡ったことになる。
姉川の幅は広くはない。やや蛇行しながら緩やかに流れている。両岸はやはり薄でおおわれている。
橋を渡り終わった私は、すぐに振り返って北岸を見渡した。北西の方角に、浅井長政の居城・小谷城のあった山の姿が見えた。私はしばらくそこにたたずんだ。
歴史は、感じるべきものである。
さらにいえば、感じるにはまず知ることが必要で、今回でいえば、信長の姉川までに至る数ヶ月間については知っておいた方がよい。
姉川の戦いがあったのは、元亀元年(一五七〇)六月のことである。その二ヶ月前、信長には瀕死の瞬間があった。
信長は、将軍・足利義昭を奉じて京に入ったが、そののち、朝倉義景に上京するように要求した。朝倉はそれを断固拒否した。よって、信長は朝倉を討つことに決めた。
京から北陸に向けて信長は兵を出した。近江(つまり織田軍の背後にあたる)には、信長の同盟者だった浅井長政がいた。その浅井が、何と朝倉に寝返ったのである。その瞬間、信長は朝倉と浅井に挟み撃ちにされる格好となった。信長の人生において最大の危機だったかもしれない。
そのとき、信長は放れ業をやってのけたのである。司馬さんの言葉を借りて説明すれば、信長は、
蒸発した。(中略)身辺のわずかな者に言いのこし、
供数人をつれて味方にもいわず、敦賀から逐電し
たのである。
こういう状況下に置かれた場合、日本歴史のたれ
をこの条件の中に入れても、信長のような蒸発(と
いう表現が格好であろう)を遂げるような放れ業を
やるかどうか。
(いずれも司馬遼太郎著『街道をゆく』より)
そして、何としてもその敗走の復讐を果たすべく、今度は徳川家康を引き連れ、満を持して進軍してきたのが姉川での織田軍だった。蒸発より二ヶ月後のことだった。
これらの歴史を繙(ひもと)きながら、信長の敗走の無念と復讐への執念を思い、姉川の岸に立っていると、私の体の中にはおのずと感動に似た感情が沸き立ってきた。この感覚を得るためにわざわざ近江まで足を運んだ、といっても過言でない気がした。
私は、決してIさんたちを否定したいのではない。IさんにはIさんの、LさんにはLさんの方法があって然るべきである。
つまり、私の方法はこうである、ということである。
|