お 水 取 り


  


 今年も「お水取り」を見たいと思った。奈良に春をよぶお水取りは、正確には「修二会」という。修二会には実にさまざまな行事があり、その中の一つが有名な「お松明」である。
 しかし、今年のお水取りはいつもの年と様相がちがう。というのも、今年はかつて例のないような暖冬で、お水取りを迎えるまでもなく春は訪れてしまっているかのようであった。事実、この日も奈良の最高気温は二十三度を超え、同行したNさんなどは、
「まるでゴールデンウィークの日差しだね」
 と呆れ顔であった。が、それはそれでよい。
 私は、お水取りに訪れる人々は人一倍、春の到来を待ち焦がれていた人だと思っている。そういった人々とともに、あわてんぼうの春を感じるのもまた一興かと思った。
 午前中、西大寺と平城宮跡をめぐった私たちは、昼過ぎに「ならまち」へ入った。そこではいろいろに買い物をしたが、実は二月堂のことが気になって仕方がなかった。ただ、私もNさんもまるでやせ我慢するかのように、それについていおうとはしない。
 三時過ぎになり、ついに東大寺へと向かった。
 東大寺への参道は、いつになく観光客が大勢であった。南大門をくぐり、二月堂への坂を上った。とにかく、今の時点でどれくらいの人が二月堂周辺に集まっているかだけが気になった。
 二月堂の前は、まだ人がまばらであった。
 安堵した私たちは、とりあえず二月堂の舞台へ上ってみることにした。向かって左側の廻廊から上ろうとしたが、そこには例によってその日に使う松明が準備され、壁に立てかけてあった。その横を通り抜けた。
 舞台は、夕陽をあびるには少し早い時間であったが、大仏殿のシルエットがいつもながら美しい三角形のかたちを示し、鴟尾もより堂々と見えた。
 三時間後、この舞台にて松明が走る。ただ、まだそういった雰囲気は舞台には感じられない。
 私たちは迷った末、当初行くはずであった大仏殿へは行かず、二月堂下にある茶屋へ入った。昨年、同じ店を同じような時刻に覗いたときは、店内は観光客でいっぱいであったが、この日はなぜか空席が目立った。今日は人出が少ないのだろうか、とも思ったが、茶屋の主人が、
「二月堂へは、人は三方からやって来ます。この茶屋周辺の人出が少ないからといって、全体の人出が少ないかどうかは判断できません。それに、ツアー客が来た場合は、一気に人出が増えますよ」
 と、まるで斥候が報告するかのように教えてくれた。
 結局、油断せずにそのまま二月堂で待つことにした。
 まだ舞台下の芝生には、人はそれほど多くない。舞台下には「良弁杉」という杉の木が一本、立っている。その杉の木にもたれかかりながら、私たちはそれから二時間、その舞台下で待ったのである。

 奈良盆地に街の灯が灯りはじめたころには、芝生は人で埋め尽くされた。しばらくすると、舞台上の灯籠にも灯が入り、まさしくお水取りの舞台は整いつつあった。
 お松明は午後七時に始まる。その直前、それまでついていた周辺の照明はすべて消された。人々は一斉に立ち上がった。その瞬間、人々の口からどよめきが上がった。松明がゆっくりと廻廊を上がってきたのである。
 どよめきは続く。松明の先の火の玉が大きく炎を上げ、それが廻廊の屋根を焦がさんばかりである。
 松明は一旦、奥へと隠れると、今度は舞台上へと姿を現した。欄干から火の玉が頭を出している。その玉はわずかに動くだけでも、火の粉を周りに跳ね上げる。
 つぎの瞬間、松明が舞台上の欄干の上を走った。火の粉の流れが頭上を走り、観客は歓声をあげた。
 私には、松明をもつ練行衆の顔までも見ることができた。私はそのとき、練行衆が松明を肩口に担ぎ、両手で器用に軸を回転させながら走っていくことをはじめて知った。
 松明は舞台上を走り抜けると、その端で突然止まる。そこでしばらく待機し、つぎの松明の登場を待つのである。そして、頃合いを見計らってどこからか大きな声がかかり、松明の火の玉はすべて下へと落とされる。ここでまたどっと火の粉が上がり、ふたたび歓声がおこる。
 すると、人々の視線はまた向かって左手の方へと戻る。そこにはつぎの松明が炎を上げている。このような松明が一本ずつ計十本、舞台を走るのである。
 よく見ると、練行衆の松明の扱い方にも個性があることがわかる。その個性によって炎の上がり方も変わり、よって火の粉の上がり方も変わってくる。松明が十本も通るとなると、観客もそういうことに気づいてきて、それをも楽しもうという空気になってくる。

 最後の松明が終わると、観客からは自然に拍手が湧いた。これでお松明はおひらきとなり、いっせいに人々は二月堂前から姿を消していく。
 よく見ると、その人の波は二つにわかれていく。帰途につく人と、二月堂の舞台へと上がっていく人である。
 私たちは思わず舞台へと上がっていく人たちの群れの中に入った。
 数百人は舞台の上に上がってきたのではないか。そして、ある人々は堂の中へと上がり込んでいったので、私たちも意を決し、靴を脱いで建物の内部へと入っていった。
 どうやら二月堂の堂内は、外陣と内陣にわかれているらしい。中心部が内陣で、そのまわりを廊下のようなものが囲んでおり、その外側を外陣が取り囲んでいる。私たちはその外陣の一角に入り込んだことになる。
 外陣の中は真っ暗だが、正面の内陣より橙色の蝋燭の炎が漏れてきている。他の人々とそちらを必死に覗き込んでみると、一見妖しげでもある蝋燭の光に満ちた空間があった。そこで何やら行が執り行われているが、それが一体どのような行なのか、具体的な姿はほとんど見えない。ただ、さかんに朗々と聞こえてくる読経の声と蝋燭の橙色がつくりだす独特の空間が、まるでこの世のものではないように思われた。無論、俗人には到底近寄りがたい空気が、そこにはある。

 かつて司馬遼太郎さんが、「文化はどの国あるいはどの集団でも不合理なものであり、逆にいえば不合理でなければ文化ではありえないのではないか」と書いていて、妙に納得したことがある。
 その点、たとえばお松明にしろ、この内陣での行にしろ、不合理といえばこれほど不合理な行為もないかもしれない。しかし、司馬さんのいうように、人間の世は(おもしろいことに)不合理なことほど文化として発達しているともいえるようで、だとすれば、不合理さを感じさせつつも千二百年変わることなく続けられてきたこの行事は、日本でもっとも成熟した伝統文化といえるかもしれなかった。
 私は、その異空間に見とれながら、東大寺という千二百年もの伝統を背負う存在の恐ろしさを感じたような気がした。